会田誠展。ベタ。自分を認めること。

 会田誠展で感じたこと。

 

会田誠『犬』シリーズを巡る議論はここではしていません。見られる環境にいる人は見たらいいと思う。単体の作品じゃなくて、展覧会として見る事でとても楽しい体験だった。壁一面にある絵を見るとやはり写真で見るのとは全く違う感覚になる。

会田さんは真っ直ぐなのが斜に構えてるのかよく分からない不思議な感じがした。

 自分を認められない人は楽しくないかもしれない。というのが全体の感想。

ベタな表現。無意識にある 現代の着想

この人の表現は、ある意味では非常に「ベタ」な表現なのかなという感想。古典的な日本絵画に、ユニフォームを着た少女という組合せ。現代アートは論理的思考と親和性があると思ってたけど、美術と哲学シリーズみてると、この人の中ではあまり思考優先にはならないアウトプットなのかなと。本人が「芸術が扱うのは本質ではなく表面である」と言っているように。 (『会田誠の猟奇性』 永遠に逃れ去る少女たち 表面の深淵)

ちっちゃく”自慢”をいれこんじゃいますが、会田誠の着想というのは自分の中にあったように思う(後出しジャンケンそのものですけど)。高校生の頃(1980年代中頃)、顔の鼻部分に裸の人を当てはめたり、車のギアの部が鼻を下から見た形にして( ꙍ ←こんなの)描いてみたりなんてことはしていた。無意識に歌川国芳の寄せ絵なんかが頭の中に流れ込んでいたのか。人の(裸)体への興味が突出していたのかも。

会田誠に戻ると。知らないうちにこの人のスタイルやモチーフが自分の中に入ってきてたんだろう。というか、この人の着想が世の中に広がり、マンガや同人誌などに着想が広がっていったのか。会田誠のマンガ的表現って、浦沢直樹ににてる気がした。わだばバルチュスになるとか、濃かれ薄かれみんな生えてんだよなァ…死(みんなといっしょシリーズ)とか。どちらの発表が先は分からないけど。

この人だとは知らなかったけど。今となってみてみると、何処かで見た絵柄、着想だったことに気付く。皆がこの人を下敷きにしたのか、会田誠が世の中をすくい取ったのかもしれない。その着想は、一度触れてしまうと、前から存在していたかのようにポピュラーさを感じる。現代日本の無意識とか無限に再生産されているものをすくい取っているからか。

アイコンとしての「少女」。中性的な時期とユニフォーム。

会田誠の描く少女。実在しているようで存在感のない少女。象徴やアイコンそのもの。「非実在」という変な造語が壊れて消えてしまう。スクール水着の中学生女子が描かれた「滝の絵」は「万札地肥瘡相見図」と対をなしているのか。伝統的な日本画の形式に現代をのせる。スクール水着って日本の風景なんだあと思った。

誤解を招く意見だろうけど、ローティーン辺りの少年少女は、未成熟で中性的だからこそ醸し出される神秘性がある。出始めの広末涼子や、神木龍之介のように。その美しさは象徴的。

日本だとなぜかその時代の子は、制服を着るし女子であれば水着までもがユニフォーム。日本ってこういう文化なんだよね、善し悪しは別にして、考えると不思議。そこまでして少女をある場所に”閉じ込めて”おこうとするのはなぜ?集団的な”プレイ”なのではないかとさえ思う。神が宿るという考えから、大事に扱っているのだろうか。集団的に10代少年少女を奉っているのだろうか。ここはもうちょっと深めてもいいかもしれない。

会田誠の描く少女の顔を見ていたら、ももクロのリーダー夏菜子が浮かんで来たのは内緒。少女のもつ中性的な神秘性を、夏菜子のLIVE中の凛々しく神々しいところに見ているのかも。

嗜好性と制御。多面性。

嗜好性が異常だということでとかく責められる世の中だけど。それをどう行動レベルでコントロールするかが、社会の中で生きるものとしての「本質」なわけで、自分の中でどう思ってようがお構いなしなはずです。会田さんも言っている「芸術が扱うのは本質ではなく表面である」とも繋がるけど。でも最近の世の中は、考えるだけで罪になりそうな流れが出てきている。

ちょっと話はズレるが、事件を起こした「犯人像」がワイドショーで語られるときに、お決まりのように「二面性があった」っていうけど。一体どれだけの人が、一枚岩で生きているんだ。学校や職場で見せる顔、一人の時に現れる顔。もともと多面性があるはずなのに、一枚岩を求められる世の中は行きづらいと思うんだけど。

しかし、戦争画リターンズから世界バカ会議の振り幅のでかさに驚く。

これらの作品への思いは自分に向いているのではないか。

「楽しくないかもしれない」と言ったのは、日本人文化の無意識みたいなものが溢れ出してるから、自分(の中にあるいろんな嗜好性や感情)を認められない人・それに気付いてない人は、この作品を拒絶してしまうのではないかということ。

綺麗で繊細でか弱きものへのあこがれや、残虐性やばかばかしさ。今の世の中では、意識せずとも触れる着想に満ちていた作品群。シンパシーを感じるか反発を感じるか。いずれにせよ、同じ土台の上にいるんではないんだろうか。

上でも言ったが、一枚岩であろうとする圧力が強い今、多様的すぎる会田誠(の作品)は、つかまえどころがない分、見ている側に不安を起こすのかも。”この人ってこういう人だから”って一つの箱に入れて”安心”することが出来ないので。

人中でエロ漫画を読むという”エロい”体験

単純なエロ目線の話もすると、残虐さはエロスだなあとあらためて感じた。会田さんの表現は決して残虐ではないんだけど。残虐という記号の付いた表現は、背徳感や「平均」から外れている感覚が生まれることで、コソコソする快楽に繋がるのだろう。

『ミュータント花子は、形式としては完璧に「エロ漫画」でした。作者や展示者の意図とは全く別に現象面だけでいうと、人前でエロ漫画をじっくり読むというのは(笑いながらだけど真面目な顔で)、滅多にできない不思議な体験。ピンク映画が廃れて、エロを見るのは常にパーソナルな空間。立ち読みはギリギリ”人中でエロ”だけれど、ページを見るのは自分だけ。”エロい”視覚情報を他者と共有しているというこの体験は単純にエラくエロい、至上的に。

18禁コーナーに分けられていたけど、見るときは他人と一緒、というのがいかにも逆説的で皮肉だ。

後は、単なる感想。皮肉とばかばかしさと脱力と。

なんだよ、「スペース・ウンコ」って(笑)、とか。「いかにすれば世界で最も偉大な芸術家になれるか」、大笑いしてしまった。

一人デモマシーン(貫徹装置)。マイクにしゃべったことをサンプリングして繰り返してくれる。「賛同を得られにくい異論を吐くのに向いている」ってのがいいなあ。鳥居みゆきの感性ってこの辺とつながる感じ。こういうのをユーモアっていうのかも。

展示の構成も楽しかった。意味のありそうなものの後に、キチンとしたくだらないものが展示されてるあたりが楽しい。全力でくだらなくて。

音声案内も結構楽しい。女性が真面目に作品解説しているんだけど、気がつくとふざけている感じ。

感想その2。新宿御苑大改造計画の皮肉。

黒板を左からじっくり見ていくと楽しい。思考はこうやって広げて重ねていくと面白いんだなって思う。このレベルにはならんけどチャレンジしようと思った。

人工素材は使わないってあるけど、はたして人工とはなにか、自然のものって何かって考えさせられる。コンクリートは石灰や石や砂なのだから、手入れをされた雑木林と同じく、自然由来と言えるのでは?、なんて考えてしまう作品。

日本の代表的な地形を作る、ってのは、果たして公園なのか?という疑問。しかし「自然由来」って、健康食品化粧品業界はいいワード考えたねと思った。最先端テクノロジーによる自然って、皮肉的だ。

アートはパブリックなものではないという話。パブリックアートの最良は上野の西郷さんと。東京ポッド許可局でよくいう、「0点のやつ」ってことなんだろなあ。

黒板の右端に「自然というファンタジー」と。「自然より自然味 、矛盾に満ちてるよ」って、本人が言っている。そして最後にみつを 印の詩があるという、壮大なアイロニー!面白い。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中