『風立ちぬ』。描かれていないものがあることを示す庵野秀明の声。

余白の多い映画『風立ちぬ』(監督:宮崎駿)。

 
表面にある「美しい姿」と描かれていない主人公の矛盾と葛藤。

二郎はまったく矛盾や葛藤、悩みについて語らない。飛行機と戦争、仕事と愛、偽善。その機能を監督によって奪い取られている。二郎の口からはさほど意見は語られていない。ほとんどの意見は周囲に語らせている。

食うことすらままならない時代に大水のごとき金を食らう飛行機を作り続ける戦闘機屋の技師たち。友人の本庄は「矛盾だよ」と連呼し、貧しい兄弟に施した偽善を指摘する。ジュラルミン合金を見る二郎は材料としか見ない。その背景については黒川が語る。あくまでも純粋無垢な人のように描いている。金持ちで頭が良く、「おめでたい」人。かといって礼節は持ち合わせているので、社会不適合者と言うほどの変人ではない。たんに自分目線しか持っていない身勝手な人。二郎にしてみれば、いじめっこや軍人、上司は意味不明な言葉を話す。興味のない話は上の空だし、単なる同情で施す二郎。徹底した上から目線。矛盾を表現するのも夢の中。

戦争について語る場面、民衆の食事と生活と命を削って作っている戦闘機についての疑念や葛藤はほとんど語られず、最後のシーンで、二郎:「1機も戻ってきませんでした」カプローニ:「飛行機は呪われている」という会話が交わされる程度。

確かに、友人のように「矛盾だよ」と言えれば楽なんだろうけど、監督によって、それをさせてもらえない。だからこそ、最後の「ありがとう」に重みがある。

謎のドイツ人カストルプと戦争について語る(二郎はほぼ意見を言わないが)場面。おそらくその事が原因で特高に狙われる。戦争について語らなくなる。表現することを抑えた理由を描写なのか?
 

  

余白に目を向かせるための仕掛けが「違和感=庵野秀明の声」

ここまで描かれないからこそ、画とあっていない声の違和感に意味がある。見ているうちに気にならないときもあったが、ふと気になって違和感に引き戻される。特に幼年時代との声のギャップは、演出で埋めようと思えば埋められる。画はすでに完成してたから庵野秀明の声に寄せることは製作工程上不可能だったにしても、子役の声を庵野秀明に寄せてもいいのにしていない。絵も声も互いには寄せていない。あえての違和感。

内面を描かず、内面がないという気にさせる抑揚のない声。そういう演技自体はありうるが、画と声の違和感だけは残る。

描いていないことに目を向けさせるための装置が庵野秀明。

美しい面だけを描いておき、徹底して現実を「隠蔽」する。その向こうに何が見えるかということを気付かせるための違和感=庵野秀明。余白を気付かせる装置。
 

 

最も現実を「隠蔽」するのが「現実」なのかも。描かないところに残酷さがある。

二郎の目線からは悲惨な現実は見えないという「現実」。現実の苦悩を隠蔽する二郎の「身勝手さ」。徹底的に悲惨さや苦悩そのものを描かない。シーンは夢で始まって夢で終わる。

大地のうねりと逃げ惑う群衆シーンを見せ、大震災をしっかり描きそうでありながら、あっという間に時間は流れ、現実の生活は次の段階に進んでいる。残酷なほどに「悲惨さ」を忘れて進んでいく。あくまで二郎目線からは見えないのだろう。

二郎たちは生活に困ることのない「階級」だからこそ、悲惨な現実に触れなくて済む。飛行機開発で列強各国に技術や資金で後れをとっていても、民衆の生活レベルとはかけ離れている設計士。二郎は長期の休みが取れ、黒川の家には離れもある。
 

 

身勝手な恋愛。

言い訳が出来る状況。婚約段階で「あなた」と言ってくれる菜穂子。病床にありながら「来て」と誘ってくれる菜穂子。いったん拒否するものの受け入れてふとんに入る二郎。1回は拒否するが、手を離したくないという菜穂子にOKをもらって結核患者の横でたばこを吸う二郎。「二人は大切な時間を生きています」と、菜穂子の命を削っている自覚はあるものの、結局二郎は自分で決めているようで言い訳できる状況。女性は男性から誘われるときに、「終電がなくなったから」「強引に誘われたから」という、自分に言い訳できる理由をほしがるという話を思い出す。

 

 

ノスタルジックさと身勝手さ。

ノスタルジックな日本の情景を、非常に綺麗な色彩で描き出す。葛藤や矛盾は語らない「身勝手な」二郎を通して美しい面だけを描く。震災や戦争で死んだ人は画面に出てこないが、逆に身勝手な人間の残酷さが際立つ。夢で始まって夢で終わる。

ノスタルジックな感傷は身勝手そのものかもしれない。古き良き時代を求めると、今あるものは捨てなきゃいけない。なのに求めてしまう。

「日常生活は、地味な描写の積みかさねになる。」と公式サイトの企画書には書かれている。淡々と山場無く日常を描いているが、あの時代の悲惨さは描いていない。徹底して二郎目線だからだろう。民衆視点での戦争そのものはほとんど描かれない。そこで苦しんでいる人の目線も、「あの悲惨の出来事を忘れないようにしましょう」と、過去の歴史として「感傷的」にフリーズドライしてしまう外側からの目線もない。

二郎の目に入らないところで悲惨な現実はある。線路の周りにうごめく民衆。理想の飛行機をカプローニに見せた後、眼下に広がる日本の戦時中。ひもじく飢えている姉弟。
 

 

矛盾を口に出来ればまだ楽に生きられるけど、それをさせてもらえない二郎。

僕が今までやってきたたくさんのひどい事

僕が今まで言ってきたたくさんのひどい言葉

涙なんかじゃ終わらない忘れられない出来事

ひとつ残らず持ってけどこまでも持ってけよ

  〜フラワーカンパニーズ『深夜高速』

 

「業」を「業」として肯定してしまえば楽なのかもしれないけど、本気でやるとはとてつもなく大変なことのはず。葛藤と矛盾を抱え込めば免罪されるのかという問い。自分が免罪されたいために悩んで苦しみ反省するのか。二郎には反省の場面すらない。解消できない「業」であり抱えて生きていくしかない。

悩む姿を見せたら、観客が二郎に感情移入出来てしまう。もっと身勝手で残酷なものなんだよと示すために、悩みは人に語らせて、自分はやりたいことをやる。岡田斗司夫は「あれはファンタジーじゃないんです。(略) 二郎の中で言って欲しいことを言っているだけなんです」と。葛藤してたのかさえ怪しい。

ただ、二郎は最後のセリフには気持ちをこめている。菜穂子:「生きて」 二郎:「ありがとう」に全てを集約している。あの時だけは声のトーンが違っていた。二郎の感情が表れた場面であることは確か。初めて自分で決めたことで感情が高ぶったのかもしれない。

自分は自己矛盾を抱えて生きているつもりでいたけど、果たして出来ているんだろうかと、突きつけられた気がしてきた。終わらない問いではある。
 

 

PS

アニメならではの表現。デフォルメのフォーカスがうねるように変化する。

涙を徹底してデフォルメして描き、大震災を重みのある表現で描く。この対比。二郎の感情はデフォルメ描写、震災の民衆はリアル。

冒頭の夢のシーンでいきなりメガネと二郎の顔が歪み、パース(遠近感)が狂う。これは二郎の夢なんだと示している。近視に悩む二郎はそこにはいない。そこから、きりっとした眉を描いた現実の二郎の寝顔に戻る。夢の中では、「本当はここに穴なんか無いけれど」とカプローニが言うように、ご都合主義が通じる世界。

気になったのは壊れた自分の試作機がおいてあるシーンでの、デフォルメ。線が丸く、リアリティがない。あれは現実ではなかったのか?みかえしてみないと分からないが。

 

 

ささやかな抵抗?。

ちょっとだけ戦闘機はイヤだという場面がある。自主勉強会で、この案は機関銃を載せなきゃいけないから今は採用しないという場面。あそこでは声に力が入っている。

 

 

好きなモノは好き、を押し通す覚悟を示した映画

アニメ(ファンタジー)、飛行機、タバコ。言うこと聞いてくれる人 ?。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中