映画「凶悪」感想〜あなたは何の代理執行者?

映画「凶悪」をみた感想、レビュー。ネタバレ含む。

「空っぽ」な藤井に始まった“祭り”

山田孝之演じる雑誌社の藤井記者は、ストーカーの事件で被害者家族に取材拒否されても何も言えない。決まり事の報道の理念さえも言わずに取材先から引き下がる。
仕事への熱意と情熱があって家庭を顧みないならまだ肩入れも出来るが、この記者の職業意識はどこにあるのかが全く分からない。死刑囚須藤(ピエール瀧)の上申書によって、記者が突き動かされていく「理由」が見えなかった。空っぽな表情だなあと思って見ていた。

殺人をする側も事実を追い求める記者の側にも、心情的に理解できる“理由”はほとんど描かれていない。最初は、“藤井記者はどうしてこんなに突き動かされているのかわからない、感情の変化が伝わってこない”と、描き方に不満を感じていた。須藤も木村先生も、たんたんと殺人を遂行していく。2人とも感情の機微を感じさせない。山田、ピエール、リリー3人の対談リリー・フランキーのインタビューをみると、あえて描いていないようだ。

藤井は認知症の母親と嫁のことから逃避するために、仕事をしていたのだろう。たまたま死刑囚の告白に触れる機会があり、使命感に燃えることもできて、のめり込むのが当然な引力がある事件に出会えたから取材を進めただけなんじゃないか。

現実逃避をしている「空っぽ」な藤井に、命を燃やし生きていると“感じられる”燃料(須藤の上申書)が投下された。ネット的に言えば、ある種の「祭り」が始まったんだろう。

「正義感に酔う」

藤井は「この事件は闇に埋もれちゃいけないんです!」と叫ぶけれど、使命感に燃えつつも、“陶酔”していたんじゃないか。

世の中や誰かのためになること・人を助けることは、充実感を得られる。自分自身が何かを成し遂げたいという目標がなくても、きちんと結果は残るし、社会的な評価も得られる。

「正義感に酔う」っていうけど、正義感は酒やドラッグみたいなものだとおもう。現実の辛いことを忘れさせてくれる。自分が自分だけの目標に向けて何も成し遂げていないことを忘れさせてくれる。「世のため人のため」は社会的に認められる感情であるからこそ、人にも責められにくいし、本人が依存していることに気付きにくいやっかいなもの。

「義憤に駆られる」人々

はるかぜちゃんが昼間カラオケ店にいることとtweetした。それを見た人が「おたくの中学の春名風花が平日にカラオケをしている!学校で指導しろ!」と学校に連絡を入れた。実際には雑誌の取材の場所がカラオケ店であり、学校には事前に許可を取っていたのだが、学校まで調べ“告発”している。

身勝手な理由なのですが、就学時間中に遊んでいると受け取れる内容をツイッター上に投稿していて、これはちょっといけないことなんじゃないか、 誤解を招いてまた炎上してしまうのではないか、 できればツイッターに載せない方がいいんじゃないかという義憤に駆られ、続

注意しようとしたのですが、ツイッター上でそれを伝えるとはるかぜちゃんを怒らせてしまうのでは、 フォロワーさんを怒らせてしまうのではと思い、こっそり学校に連絡したのです。気持ちが暴走していました。本当に馬鹿なことをしたと思い深く反省しています。 

ネット上の拡散と炎上

ネットで「悪いこと」をした人は、一斉に叩かれる。バイトくんが若気の至りで犯罪自慢をしてしまうと身元を特定されその上方が拡散する。

特定班と呼ばれる人、春風ちゃんの学校にしたように“電凸”する人は、確信犯的に行っているんだろう。2chのまとめ記事やあおり記事を書く人は、“意図的に”そういう記事を書いてページビューを増やし広告収入をあげているのだろう。

はてブやRetweetでその情報拡散に結果的に手を貸している人は、自分が何をしているかの意識は少ないと思う。「へえー面白いな」だったり「なんだこいつら、ばかじゃねえの」だったり。

“罰を受ければいい”っていう気持ち

ただ、こういった興味本位の“拡散”の裏には、“こいつらには制裁が与えられるべき”という変な「おおやけ(公)」の意識が働いているんじゃないだろうか。

自分も、いじめによる自殺というニュースを聞けば、問題が解決して欲しいという“まっとう”な思いの他に、「いじめている側に罰が下ればいいのに」という感情も芽生えてくる。それは時にどす黒く、「死ねばいいのに」さえ思うことだってある。

ネットというツールがなければ、悪いことをしている奴の話を知っても「罰が下ればいい」という思いだけで終わってた。

SNS時代では、ふとした「ブックマーク」「いいね」「RT」が、事実を拡散する。「へえ」「おもしれー」「ばっかでー」程度の“無意識”のRTも、社会的制裁という大きな罰を下す行為になる。それも、しでかしたこととは比べものにならないくらいの制裁を。

“公”の意識が自分の身の丈を越える

正義は我にありと感じる場合、その“正義感”から自分を省みる意識が薄れてしまう気がする。“公”の意識が働くと自分の責任範囲を超えてしまいやすいのではないだろうか。藤井は法廷で反省の弁を述べる須藤に対して「この世で喜びなんか感じるなっ!生きてる実感なんか感じるなっ!」と叫ぶ。

この映画が扱っているものは殺人であり、真実を掘り出すことに意味はある。職業も記者だし、正義感を振りかざしても問題のないレベルの事件。ネット上の”おいた”とは比べものにならない。けれど、藤井は年老いた親に向き合わない点では、殺人を依頼した人たちと同じ延長線上にいる。

いったい私・あなたはどこから権利を与えられた代理執行者なのか。キリストの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」を思い出す。

映画の最後、木村先生がこういって面会所の窓を叩く。

「私を殺したいと一番強く願っているのは、被害者でも、おそらく須藤でもない。」

山田孝之の空っぽと怒りの表情

最後に木村先生と向き合う時の山田孝之の表情は怖さを感じるほど印象的だった。右の目は大きく見開き怒りに満ちあふれ攻撃的であるのに、左はうつろで空っぽな表情。非常に冷静な藤井、怒りに震える藤井。藤井が1人暗い部屋にいる画。この表情にこの映画の凄さが詰まっていたように思えた。

人殺しの現場を淡々と執拗に描き、その凄惨さから距離をとろうとする観客を一気にひきずり戻す映画。

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