タモリ:日常世界の「いいとも」に、「一番危ない」人が「空気」のようにいること

タモリ1983

いいとも開始頃(1983)のタモリ

要約:常識と非常識が同居しているタモリが「異質でいいじゃないか」を教えてくれた。「いいとも」という「常識」のなかで「非常識」なタモリがいた意味。いいとも終了の報に触れてタモリを考えた。

淡々と「いいとも」の終了が告げられた。

「来年の3月で いいとも 終わります」。2013年10月22日、タモリが淡々と言った。中居正広のいる火曜日、タモリをテレビの師匠とあおぐ鶴瓶の乱入で。

3月いっぱいで「いいとも」終わるんです。でもねえ30からこの世界入ったじゃん。するするするっと横滑りしてこの世界入ってて6年後にこの番組やったんです。「いいとも」で初めて芸能人として何とか格好が付いたんで。32年、フジテレビがずーっと守ってくれたんで、ホントにこれ感謝してもしきれません。それと出演者の皆さまにも大変お世話になりました。国民の皆さまにも、ホントどっち向いても感謝です。

この淡々とした姿勢こそタモリであると再確認した。

タモリがテレビの世界から居なくなるわけではない。むしろ『ブラタモリ』世界編だって出来るし、流浪の番組『タモリ倶楽部』はもっと流浪するかもしれない。新しい番組をしてもいい。それでもテレビとしては節目となる出来事。

* * *

山下洋輔らジャズメンに見いだされ、赤塚不二夫宅に居候し、1975年に初めてテレビ出演。’76年からラジオ『オールナイトニッポン』。後述する『テレビファソラシド』は’79年スタート。『森田一義アワー 笑っていいとも!』が始まったのが1982年10月4日。『タモリ倶楽部』もこの年10月8日。

タモリについて系統的に考えるなら、てれびのスキマのタモリ学が今一番のテキストだと思っている。あれを読んでしまうと、自分に言えることは何も無いという気になる。ただ、タモリが自分の中にどのように存在しているかということだけを記しておきたくなった。途中まで書いて置いてあったのだが、いいとも終了の報に触れ、まとめておこうと思った。

この人のように生きてみたいという人がタモリ。タモリになりたいだなんて不遜きわまりないんだけれども、彼の佇まいはそれを言ってもいいと思わせる。がつがつした笑いが少し苦手だったりする自分には、「やる気のあるものは去れ」というあの感じがいい。そして、タモリを語ると自分語りになってしまう。

テレビファソラシドでみた”非常識”

最初に彼を見たのは「ばらえてい テレビファソラシド」でだった。1979年から1982年まで放送されたNHKのバラエティ番組で、永六輔や加賀美幸子アナウンサーが出演していた。今考えると、まだ密室芸で名前が知られた頃だったから画期的なキャスティング。イグアナの真似、寺山修司などの思想模写、ハナモゲラ語での四カ国語麻雀など、見たことのないセンス。「人とは視点が違う」人という感覚を覚えた。非常識なタモリに目くじらを立てる永六輔、タモリに困惑する加賀アナウンサーという対比が面白かった記憶がある。今思うと常識(永)と非常識(タモリ)がきちんと対立していたのが面白かったのだろう。

タモリ本人は、永六輔と並ばなくても常識と非常識が同居しており、インテリジェンスのある人だった。笑いながら永六輔を「男のおばさん」と呼び、悪態をつきながらも年上にかわいがられていた。今で言えば中居正広や矢作兼、有吉弘行の立ち位置だろうか。

白衣を着てぼさぼさ頭のカツラをかぶり黒い眼帯をして「講義」をするタモリ。中州産業大学教授というネタがあるが、自分としてはえらく衝撃だったようで、黒の眼帯を自作して「はい、タモリでございますよ」と親の前で物真似していた。たまたまこの時期にタモリを見れたこと、今となっては幸せなことだったと思う。

人と違った自分〜少し自分語りを

 ❖— 人に距離を置かれ、嫌われていた自分

すこしばかり自分語りを。田舎の小さな集落で育ったが、小さい頃は人とうまくやるのが苦手で、うまくいっていない事さえも自覚がなかった。

保育園の頃。友だちと戦隊もの(ゴレンジャー)に登場する乗り物(バリタンク)を粘土で作っていたとき、側面をツルツルに仕上げていた自分に対して、友だちは凸凹のまま仕上げて満足そうにしていた。「自分はこの凸凹では満足できないけど、こいつは満足なんだなあ」と不思議に思い、やがてそれは「人って違うんだなあ」という感覚に繋がっていった。

小学校1,2年、同学年は男子5名しかいなかった。汽車通学で僕以外は4人席に座り、自分一人だけ別の座席に座っていた。学校から帰ると約束もしていないのに同級生の男子の家を訪ね、いないと次の同級生の家を訪問していた。他のみんなはたいてい面倒見の良い一つ上のEくんの家に集まっていた。2〜3軒回ってからEくんちに行くことがいつものパターン。今考えてみれば、自分だけ呼ばれていなかったのだろう。それに気付いていなかったから辛くはなかったのだけれど。

友だち同士でちょっかいを掛け合って遊んでいるのを見て、自分も掛けて欲しいと思っていたけど、かけられることはなかった。友だち同士がやっているのをまねして自分がちょっかいを出すと、相手に嫌がられて終わってしまっていた。なんでなのかその頃は分からなかった。

 ❖— 評価されるポイント(軸)が少ない小学校が窮屈だった

小学校3、4年頃クラスで劇をやる際、当時の友人と鍬(くわ)をボール紙でつくった。僕らの感覚では見たものをそのまま再現したのだが、他のクラスメイトからはリアルで凄いと評価された。その時に2人で、「普通にやっただけなのに。他の人はこう作ろうとは思わないのかなあ」と話した。自分たちの感覚は間違っていないということをお互いに確認しつつも、「鍬をうまく作れたからって、それ自体はクラスの中では評価されない」という話もした。

できあがったものを誉められこそするものの、鍬づくりのスキルは学校の社会(ヒエラルキー)の中ではあまり役に立たないことを確認し合った。当時、評価軸が非常に少なく窮屈だと思っていた。学校(先生)との関係では勉強か運動が誉められポイントであり、勉強が出来ることは友人との間での評価には直結しない。そんなことを数少ない、感覚の近い友人と分かち合っていた。

異質であることをタモリに肯定された

自分の持っている感覚を前面に出しすぎると、どうやら立ち回りが大変だと いうことにうすうす気づいてきた小学校時代。そんな経験を繰り返しながら、年齢が進むにつれて少しずつ「周囲の目」=「周りはどう感じているかを意識する力」が育ってきた。

そんな「常識」という「社会性」を少しずつ身につけた頃に、「テレビファソラシド」でタモリに出会った。小学生から中学生にかかる時期だった。あとで振り返ると、自分の感覚を肯定されたと感じたのかもしれない。

タモリは、幼稚園で揃ってお遊戯をしている園児を見て入園を拒否し、「5歳が俺の精神的ピークだった」と語っている(てれびのスキマwikipedia)。タモリに並ぼうとするつもりはないけど、自分なりには多感だった。

自分語りの脇道が長くなったけど、タモリという「非常識」な「異文化」をテレビで見たことで、人と交わるのが苦手な自分を認めることが出来たと思う。人はそれぞれ違うって事、常識を疑う事をタモリから学んだと思っている。

子ども時代に『ちびくろサンボ』を見て受けた衝撃。追いかけてきた虎がぐるぐる回ってバターになってしまうなんて、なんだそれは!と。どこかでタモリに対してもそんなものを嗅ぎとっていた。“得体が知れないものへの強烈な引力”を感じ取っていたのだろう。

非常識と常識の同居

いまやタモリは「タモさん」であり、芸能人が芸能界に入ったことを実感させてくれる存在。テレビのど真ん中に位置している。10〜20代の視聴者からすれば、安心は感じるものの面白さを感じない存在かもしれない。ただ、すでに鉄板のマンネリズム番組となった「笑っていいとも」を、どこかでタモリは突然突拍子もないことをし始めるはずだという確信めいたものを抱きながら見ている。「俺だけはタモリがとんでもないことをするヤツだって知っているんだ」という気持ちになる。未だに密室芸をやっていて、それを見ているのは自分だけだと思わせているかのように。

芸能界のど真ん中でありながら、奥底に得体の知れない何かを持っていると感じさせる。そして、それを知っているのは自分だけだと視聴者に錯覚させる。視聴者にというか、僕に。この両義性こそがタモリの魅力なんだろう。

Coccoへのまなざし。テレビの非日常性を知っているタモリ

Coccoが一度歌手活動を休養する時期があった。2001年4月20日に出演したミュージックステーションでは、『焼け野が原』を裸足で歌いあげたあとスタジオの外へ走り去ったのは有名な話。歌前のトークで「テレビに出たくない」というCoccoに、「じゃあテレビに出ないで活動を続けたらどう?」と言うタモリ。「‥‥でも‥‥」と言ったCocco に、「まぁそういう問題でもないんだよね?」と声をかける(Cocco目線の詳細はこちら)。

このあとはうろ覚えで資料も見つけられないだけど(知っている方がいたら教えて欲しい)、Cocco がスタジオを去った後、“東京で、テレビという場でやっていくこと自体、普通ではないことなんだよね”という趣旨のコメントをしている。テレビのど真ん中にいながら、その非日常性を知っているタモリ。あのころのCocco は今よりも、歌うことは生きることそのものだったように思う。見る人によっては、「不安定な人」だっただろう。異質を恐れないタモリだからこそ、「異質」と言われてしまうかもしれない人に対する目線が暖かいのだと思った。

「常識」という「内輪の見えない空気」をあらわにする

常識というのは空気みたいなもので、その中にいる人間には「そこに潜むルール」(常識)に気付かないことが多いけど、タモリはその「常識」を気付かせてくれる。その場に流れる暗黙のルールを的確に見抜いて違和感を示す

最近で言えば「団結」をテーマにした2012年のFNS27時間テレビだろう。あるコーナーで、フジテレビ社員の結婚式に呼ばれたタモリの映像が紹介された。「結婚式クソ食らえでございます」とスピーチし、馴れ合いや偽善をぶちこわしたくなって新郎にタックルをくり返すタモリ。そして番組最後には、「団結、団結と言って団結したんですけど、その分国民から離れたかもしれません」と挨拶し、「えー、テレビを見てくれた方々、そして見ない方にも感謝申し上げます。どうもありがとうございました」と締めくくる。馴れ合いを拒み、番組そのもののテーマから距離を取り、番組を見ていない側にも投げかける。(参照:タモリにとって偽善とは何か」;てれびのスキマ)

タモリはお遊戯をしている姿を見て入園をしない。しかしたいていは、自分の感覚に合わない暗黙の了解を何も考えずに受け取ってしまって、どこかで自分をごまかして無理をしてしまう。タモリはそういうことを徹底的に批判している。それは「やる気のあるものは去れ」という名言に凝縮されている。熱くなって客観的な目を忘れてしまってはだめだというメッセージ。

爆笑問題の太田が語るように、今回の番組終了の告知は通常では有り得ない形で、タモリの「暴走」だとまでいう(参照)。淡々と終了を伝えているようで、クーデターのような幕引き。爆笑問題太田が言うように、「アイツが一番危ない」ことを思い出させてくれた。

常識と非常識が表裏一体だった『森田和義アワー』の終了

『笑っていいとも』は、長く続いてきたからこそ、冒険的な番組ではない。安心してみられる番組。意図的にマンネリの番組。すでに「いいとも」のテレフォンショッキングは、友だちを紹介するという体さえ取り払って次回のゲストが紹介される予定調和。そんなマンネリズムの塊のような「いいとも」の中で予定調和を淡々とこなしているようでありながら、もともと予定調和が嫌いでふとぶちこわしたくなるタモリ。群れているように見えて、多様であること・異質であることを恐れないタモリ。

時折非常識なことをするタモリによって、常識と非常識は表裏一体であることが気付かされる。不思議な人がいるんだ、居ていいんだということを気付かせてくれる。

「いいとも」が終わる事の意味はなんだろうか。『笑っていいとも』は、常識という空気の中で非常識を際立たせる舞台だったのかもしれない。常識を見つめ直すこと機会が減ってしまうのではないか。そんなことを考えた。

僕たちは「いいとも」を通じて、タモリという

「一番危ない」人が「空気」のように僕らの間に存在している

ことに気付けた。あの番組だからこそ、当たり前のように。

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