壊れた映画じゃなくて壊し切れていない『R100』

要約:松本人志の『R100』の感想。「めちゃくちゃにする」というけど、めちゃくちゃになってないと感じたのが残念。やりきっていないし振り切れていない。でも発想そのものを思い出すとワクワクした映画。

この映画への批判として、「SMが中途半端」だとか「ツッコミが必要だ」「メタ構造は逃げ」「コントにすればいいのに」ってのはどうも違うんじゃないかという結論。

凄い面白い(笑うという意味ではなく)映画ではないんだけど、こんなに後を引く映画はない。一緒に見た松本人志初心者の嫁と30時間は語り合っていまだに決着が付かない。

『大日本人』はみたけど、『シンボル』と『さや侍』はまだ見てない。

オープニング、「排泄」から始まるとは何て映画だ!とワクワクしたのに⋯。

オープニングはワクワクした。たたずまいのある喫茶店にいる高身長でキツめの女王様。女王様がトイレでタバコを吸って煙を吐き、トイレで用を足し流さない。ああ、「排泄」で始まるとは、なんて深いSMなんだろうかとゾクゾクきました。はい、自分の変態部分に刺さってきたのです。精神的世界を掘りすすむのかなあと期待したオープニング。

自分が妄想するSMのすばらしさは、肉体と精神を痛めつけているようだけれど、本質は「信頼に基づいた確たる精神のつながり」だと思っている。

しかしそれはすぐに後になって悪い意味で裏切られた。喫茶店で綺麗なけりを入れ、街中にボンテージファッション、石段の上で高い目線から見下ろすところは良いのだが。蹴って終わり。あれ?、排泄という深いSMを期待したんだけど、たんなる暴力だなと少し落胆。

画がセピア調で色を抑えている演出に絵的な期待もしたのだけれど、画面比率がワイドじゃなくてテレビ的な処でちょっと残念感。そしてその画もいまひとつ艶がない。一緒にみた嫁は、映画的で良かったという印象だったのだけど、自分にとっては安っぽさが気になり、「映画風味」のB級感だけが強く残った。

そしてSMというと、サトエリ女王様による寿司屋シーンに。「あれ?肉体系の責めから突如レベルの高い精神的な責めになるなあ」と疑問符満載に。街中で蹴られる、人前でつぶされた寿司を食べるっていうのは、考えようによってはかなりディープな「プレイ」だけれど、その後に続くプレイが結局肉体への責めだけだし、そもそも段階を追っていくという流れがない。流れがないから、世界が破綻していくという印象も持てないまま進んでいった。ざっとプレイを振り返っても、ちぐはぐさが目に付く。

冨永愛;蹴る[肉体] → 佐藤江梨子;人前でつぶした寿司を食べさせる[屈辱~精神]→街中車の中[肉体] → 放置プレイ[精神] → 踏切で蹴る&息子へのコロッケがぐちゃぐちゃ[肉体+日常へのほころび~精神] → 寺島しのぶ;職場のトイレでムチ[日常生活の破綻~精神] → 大地真央(声の女王);[身内にばれるかも~精神] → 片桐はいり(丸呑みの女王)[?敢えて言えば精神か] → 渡辺直美(唾液の女王)[排泄~精神+肉体]

最初に言っておこう。ここが大好き。

渡部篤郎のバイクに乗り親指を立てて父親の家で行くシーン。声を出して笑った。

CEOの手下である個性のない女戦士たちが手榴弾によってふっとんでキャベツ畑になっていくシーン。絵的にワクワクしたし、ツボだった。ウルトラマンとかウルトラQみたいだなあって思えてきた。戦士たちが吹っ飛ぶところはそれだけでおかしかった。

そして極めつけの好きなところは、ラストの妊婦シーン。特殊メイクも説得力があった。息子と家族写真を撮っている幸せな家族でありながらも倒錯的であった。あの世界の壊れ方は大好きだ!。

何なんだろう、この映画

全体としては、正直よく分からない映画だった。爆笑するわけでもないし、作り方や構成に疑問を持つ箇所も多かった。

上にも書いたように、最初はSMに深みがないという印象だった。ただ色々考えていると、そういうことが問題じゃないんだと思えてきた。

こちらの気持ちがのめり込まみそうになったとたんに、なんだかベクトルが変わる。SMが深いのかと思わせて違う。ボンテージクラブの得体の知れない感じにワクワクしたんだけど、メリーゴーラウンドのシーンは空間が狭くて世界の「奥行き感」がない。なんだかチープ。「おっ、これは」と思うとその世界の浅さにがっかりしてしまう。まるで、のめり込ませないように監督自ら「壁」を作り続けているのかとさえ思った。

構成としては100歳の監督が作った映画だと「世界を壊し」て観客を裏切るのだけれど、その前に悪い意味で「裏切られた」。壊すべき世界がないままに、壊そうとしているよう。

松本人志監督はなにかに「ためらってる?」のかという印象を受けた。

松本人志の面白さは「異種を組み合わせた設定のおかしみ」

松本人志の作り出す笑いの世界は、つまるところ「視座の転換」。それに魅了されたてきた自分。

そして、異種のものを組み合わせる設定そのもので「おかしみ」を作る。設定状況ですでにオチている。それが何より凄い。この方の文章にうまいことまとめられている。

こういうことがあったら面白いだろうなあという状況設定がとにかく好き。設定をイメージしただけで、面白い。自分が好きなのはここに尽きる。発想自体からおかしみがしみ出してくる。コントでの例をあげると。

  • トカゲのおっさん@ごっつええ感じ:「飼いたいペットがトカゲでおっさんだったら」
  • 正義の見方@ものごっつええ感じ:「正義の味方が怪獣より圧倒的に小さいとしたら」
  • 大改造!!劇的ビUFOアフター@MHK:「UFOを劇的ビフォーアフターでリフォームしたら」

この映画も、設定自体は面白いんだけども、いまひとつ入り込めなかった。設定を書き出してみると、すげえ楽しそうなのに⋯。

  • 仕事や子どもまで倒錯世界に巻き込まれてどうしようという心配が、劇中劇
  • 100歳の監督が作ったぶっ壊れた映画に、文句も言えず困りはてるプロデューサーたち
  • 監督自ら、映画をみて恍惚としちゃう
  • 監督はぶっ壊れた映画を見られることが辱めであり、SM的快楽

設定のおかしみを楽しめなかったのは何でだろう。

本人が「コメディ」ではないと言っているのだから、その意図を受けて考えた。自分の不満は主にこの2つ。

  1.  SMとメタフィクションの描写のバランスがとれていない。
  2.  壊す前の世界を構築しきっていない

1. SMの描写とメタフィクションの描写のバランスの悪さ。段階がちぐはく。

SMが段階的に深まらない。レベルや質がバラバラでちぐはぐ。最初は暴力だけでSMに深みがないって思ったけど、それはあまり問題じゃない。

なんせ問題なのは連続性・段階性のなさ。SM描写に連続性がないので、世界が徐々に構築されない。その後壊すべき世界ができあがらない。

突如襲われると説明されているが、自宅や会社以外は来ることが予告されている。クラブ入会時の説明と違う。ここも世界観のほころびに繋がっている。

SM描写の一方で、メタフィクションは徐々に明らかにされ、段階的に丁寧に描写される。

この2つの描写のバランスが悪いので、世界が作られ壊れていく感じを受けない。

2.「フリ」が弱い。壊す前の世界が構築されないので「裏切る」ものがない。

決してコメディやコントとして「フリ」をしろと言っているのではない。

驚きや感動は「緊張と緩和」というフリ幅の大きさによるはず。観客を「裏切り」たいのであれば、それまで観客を世界に没入させなければならない。壊す前の世界を構築しないので、壊すものがない。だからメタフィクションがだめな映画であると言い訳している「逃げ」だと見えてしまう。

2-1 フリの弱さ①:エクスタシーに達する波紋表現。「コント記号的」すぎる。

片山(大森南朋)がエクスタシーに達する映像表現が、顔の歪みと波紋という表現をしていた。一緒に見た嫁は、「あの表現があるおかげで、壁の向こう側でも快感を得ていることが分かる」と言っていて、たしかになるほどそうかとは思った。

ただ自分には「あ、急にコントになっちゃった」って思った。監督自ら、自分の作る映画は「コメディーでも喜劇でもない」と言っているし、「一歩間違えばお笑いになっちゃう」って言ってるのに、俺にとっては安っぽい表現だった。

「決してオカルトには見えない。松本「主人公の片山が恍惚を覚えるときの表現だって、一歩間違えばお笑いになっちゃうじゃないですか。そうならないように、むしろオカルトっぽくして」   松本人志インタビュー

まだ普通の映画であるはずの冒頭にもかかわらず、波紋描写で一気に冷めてしまった。世界の艶と深み、哀愁がないなあって。あの映像表現自体に驚きがないのは、松本人志を見過ぎているからなんだろうか。

最初の片山恍惚シーンですでにこう思ってしまったので、少しずつ映画として破綻をきたす描写にも、冷めた目線しか持てなかった。女王様の名称がテロップで示されたり、松本人志が登場し主人公をとても常識的に諭したり、渡辺直美がへんてこに踊ったり、ボンテージクラブでなぜかインタビュー撮影をされたり、女王様が奥さんやお父さんを丸呑みしちゃったり。

「大日本人」は、最後になるまで“ヒーローの悲哀”と“おかしみ”を構築していたので、最後の特撮シーンで「うらぎられたー!」っていう爽快感があったんだけどなあ。

2-2 フリの弱さ②:映像と音楽に独創性がなく中途半端で、普通の映画に見えない。安っぽいのだ。

SMをテーマに掲げボンテージファッションもいい感じなんだけど、映像の美しさが中途半端。好みとしてはより耽美に仕上げて欲しかった。インタビューで、色を抜き「生っぽくないものにしたい」といいつつも、映像はどこかで見たことがあるもので、安っぽく感じる。

松本:僕は1回も自分の映画をコメディーだと言ったことはないし、笑わせますとも言ってない。そういう意味では、『R100』では特に映像から色を抜くことにこだわったんですよ。それにはいくつかの理由があるんですけど、大きな理由の1つとしては「コメディーじゃないよ」って言いたかったから。コントっぽくないもの、生っぽくないものにしたかったんです」

―:『R100』でも、あえてフィルムの「銀残し」みたいな、コントラストの強い質感の映像にしている。お笑いにとって、生っぽさって1つの武器だったりもするから、松本さんの映像作品に見られる美しさって弱点にもなりうると思うんです。にもかかわらず、一貫して映像美にこだわるのはなぜですか?

松本:僕はお笑いで名を売った人間なので、映画を撮っていても、みんなお笑いを求めるんですよね。でも、僕は1回も自分の映画をコメディーだと言ったことはないし、笑わせますとも言ってない。そういう意味では、『R100』では特に映像から色を抜くことにこだわったんですよ。それにはいくつかの理由があるんですけど、大きな理由の1つとしては「コメディーじゃないよ」って言いたかったから。コントっぽくないもの、生っぽくないものにしたかったんです。

松本人志インタビュー

作り切れていないものを「壊して」も爽快感、カタルシスがない。

最近見たので引き合いに出すが、「地獄でなぜ悪い」。ヤクザの討ち入りを映画に撮るのでぞれぞれの組に撮影許可を取り付ける。ありえないことのはずが、それまでの構成や流れや俳優陣の演技、なにより長谷川博己の快演(というか快笑)で「ありかも」と思わせた。あれもメタフィクションの構造だったし。

もともと僕の好きな松本人志は、「気づきを与える」人。「新しい視点の提示」をする人。

松本人志の凄いところ:視点の鋭さ。非常に相対的で自由な発想。言われて初めて気付く。そして一度聞くとあまりに納得するので昔から言われていたことであるかのように自分に染み込んでしまう。

有名人が飲酒運転で捕まるじゃないですか。会見をするんですけれど、涙ながらにお酒飲んで運転しませんと言うんですけれど。いやいやいやいや、酔ってたから車乗ってしまったわけですよ。しらふのお前が今それを言っても説得力がない。それをするならべろんべろんで会見しろ。「僕こんなに酔ってますけど、乗る気しないっすね」と。ようするに狼男が狼になってないときに僕噛みませんって言っても誰も信じない。狼に思いっきりなってるけれど、僕噛みませんって言ったら、ああこの狼男はわかったんやなと。

「人志松本のゆるせない話」飲酒運転の謝罪会見

最近、ワイドナショーでも言っている。酔って失敗した人を、「多重人格な訳じゃないですか。飲んでないときのこの人は謝っても意味がなくて、ベロベロ(泥酔)で謝らないと意味がない」と。心理学的な目線で見ると、アルコール依存症の人が酒を飲んでいるときは「別人」なので、周囲がその人をどう捉えていいか分からなくなる。DVもそう。「普段は優しいのに」って周りが混乱する。ちょっとずれたけど、こういう真理をずばっと掴んでいる人。

他にも、“テトリスがどれだけ上手いか教えよう”のお題にに対して「角が丸くなるまでやった」と答えるあたり。笑いどころをそこから持ってくるのかということが好き。

どれも普通にあるモノなのに、それらを組み合わせたり、誰も気付かなかった視点を提示する松本人志。すでにある世界から「しみ出した」ものに「おかしみ」を見いだす人。世界に「組み込まれないモノ」を見いだして「おかしみ」を産む人。

「ごっつええ感じ」、「ダウンタウンDX」では、他の出演者が「ふつうの感覚を持つ人」なので、松本人志の面白さが際立つ。視点の転換をすることで、落差が生まれ「おかしみ」が産まれていた。

世界から「はみ出すモノ」のおかしみ。

しかし映画の場合、すべて自分で用意しないといけない。壊すための「世界」や「体系」を作らなければならない。それはコントもそうだけれど、コントやコメディを作りたいわけではないと言っているのだから、ツッコミを用意したり、わかりやすいボケをおいて置くわけにはいかないんだろう。

けれど、ある「世界」や「体系」を作ったとたんに、そこに組み込まれないものが生まれてしまう。松本人志はその、「組み込まれないモノ」にこそ「おかしみ」があると考えているのだろう。自分で作りながらその世界に取り込めないモノを示していかないといけない。

松本:スタッフやキャストには「基本、笑いはないつもりで」って言ってたんですよ。まぁ本がおかしいから、どこかで“こぼれる笑い”はあるのかもしれないですけど、作り手の姿勢としては変に笑いを取らないで行こうという考えでしたね。

松本人志監督、映画製作に対する“迷い”を吐露「良いのか悪いのか分からなくなる」

構築した瞬間、そこから逃げ続ける。「そんなものは元々なかったんだよ」というポスト構造主義的な感じもする。←ここ、よく分かってないで言ってるけど(^^;、学生時代にポスト構造主義が全く理解不能だった感じに似てるんだよなあ、この映画。

「お笑いの松本人志」との闘い。

コメディじゃないモノ、お笑いじゃないモノを意識しするので、「フリ」の効いた「世界」を作ることにためらいがあるのだろうか?。松本人志がそんなことで悩むわけないか。でもそう感じてしまった。

「世界を構築する」ことは「フリをきかせる」ことであり、それがコメディだと思われることを恐れているんじゃないだろうかって疑問さえでてくる。コメディに見られることを「照れ」ているので振り切りが弱いのではないか。

そんな単純なところで迷っているわけじゃないんだろうけど。

日本ではまだまだお笑いの番組を現役でやっている松本人志が監督をするのだから、観客はお笑いを期待してしまう。コントを求める日本人観客から松本人志自身が自由になれないもどかしさ。世間の「松本人志」イメージの強さ。松本人志本人がそれを捨て去るのは非常に難しいんだろう。

「俺の映画ってしょうがないのよ。お笑いで名前が出てきた松本人志なんでね。僕が映画撮るって言うとまた笑わして下さいねと見る。先入観を捨ててみてもらえたら一番ええねんけど」「映画の勉強をせずに違うところで勉強して映像で表現する。優秀な映画監督を目指したってどんどんつまらなくなってくとおもう」

チャンネルNECO「映画ちゃん」

現役お笑い芸人松本人志の「遠慮」と、お笑いの世界に居る自分への「照れ」が、中途半端な世界になってしまっているのではないか。

だからカタルシスも「おかしみ」も少なくなってしまう。

メタ視点は「逃げ」ではなく、世界を構築する事への「ためらい」なんじゃないだろうか。

まともな世界を作らなくてもいいし、最初っから壊れてたって良いんだけど。その“迷い”があるから、僕はこの映画にのめり込めなかったのかもしれないなあ。

設定と発想そのものを突き詰めて「おかしみ」を表現して欲しい。

この映画を考えていると、会田誠を思い出した。

現代美術家、会田誠の作品に「スペース・ウンコ」っていうのがある。230cmx330cmという非常に大きなサイズで宇宙に浮かぶウンコ。いい意味で“ベタでくだらない”テーマだが、圧倒的な画力と迫力でその世界を成立させている。会田誠展「天才でごめんなさい」を見たが、その発想の豊かさとばかばかしさ、同時にベタであることのすごさに感激した。

『R100』はコントでも映画でもないモノを作ろうとして、どっちつかずになっている気がする。圧倒的な映像美だったり、圧倒的なばかばかしさだったりを、もっともっとふんだんに入れて欲しい。

そして会田誠はこの前のいいともで、現代美術は自由度の高いジャンルであると話している。

会田誠:現代美術っていうのはそんなに難しいものじゃなくて。最初から立派で素晴らしいものであるはずだと身構えてみられるとこちらとしては困るというのがありまして。今は芸術って言うのはいろんな事が試せて失敗してもまあ笑って許してもらえるような自由度の高いジャンルで、最初から立派とか見ない方が楽しめると思うんですよ。何ならアーティストの失敗を、ズッコケを見に行くくらいの。

タモリ:嫌いなら嫌いでいいんですよね。伝統的な芸術って言いにくいんですよね。

会田誠:言っていいんじゃないですか。過去の作品だってそうだと思いますけどね、フェルメールだってそんなに好きじゃないですけどね。

2013/11/1 「笑っていいとも」

こんな感じで、松本人志も見る側の観客も身構えずに見た方が楽しめるのじゃないか。実験中なのだから。

そういう意味で水道橋博士の話が腑に落ちる。

『R100』は面白かったけど、公開規模がでかすぎただけ。映画のお客さんが入る入らないと面白さは関係ない

松本人志の頭の中をそのまま見せて欲しい! 次も待ってる!!

こう言うくらいならその哲学的な世界を描いてくれ!! SMじゃなくてもいいんだ。松本人志の頭の中を見たい。次、待ってるから!。

『R100』はSM映画だとも思っていないんです。強いて言うなら入門編みたいなものですね。僕の考えるSMはもっと複雑で、もっと哲学的なものなんです。

松本人志インタビュー

「めちゃくちゃで全て自分で責任を取りたくなかった」というくらいなら、もっと松本人志の頭の中をそのまま示してくれた方が「おかしみ」は多いはず。その方が嬉しいし、それを求めている。

観客を突き放して置いていってもいい。設定と発想だけで「おかしみ」を分からせれば良い。

「あえて監督の僕が言いますが、これはひきょうな映画でもある。めちゃくちゃにした責任を全部、僕がかぶりたくなかった。逆に言えば、本当にめちゃくちゃにするためには必要な仕掛けだったということです」

インタビュー

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