あまりの熱量で「暑苦しい」ダイノジ大谷ANNが、「滑稽さ」をまとってきて面白い

要約:多くの熱量で暑苦しいダイノジ大谷のオールナイトニッポン。「滑稽さ」が際立ってきてる最近。思春期の悶々とした想いを抱えた奴らに「暑苦しくてもいい」、「人と違ってもいい」ことを滑稽に伝える大谷。中学生だったら布団の中で涙してしまうかもしれないラジオ。しかし、「滑稽だ」と自覚して笑い飛ばせれば、その悶々としたおもいはもう少し扱いやすくなるかもしれない。

ダイノジ大谷オールナイトニッポン(ANN)。今時ラジオでは珍しいが、洋楽を知らない世代に洋楽を広めたいというテーマの番組。それもFMではなくAM。FMで曲を紹介することさえ少なくなってきたなかでこのテーマ。音楽シーンを取り上げるため、邦楽ロック、アイドルも取り上げる。

ウザいほどの熱量。ウザいほどの自我意識

今ダイノジ大谷はANNで、ひたすら熱量のある「ウザい」しゃべりをしている。ゲストが来てもほとんど喋らさせないほどに喋る。自分で呼んだのに語らせない。自分が好きなモノ、自分の体験、生い立ちを衒いなく語る。それが不幸なことであっても、ある意味で「笑い」がなくても。母子家庭で育ち、母が一家心中を考えたこと、親に捨てられそうになった経験、死にたかった自分を語る。悲劇を笑い飛ばして喜劇にするためにと語りまくる。

彼のラジオは、自意識が肥大化した時期に聞くと、「仲間の存在」を感じて涙するかもしれない。

自我が育ち、自分とは何かを考えるようになり、人と自分の違いを考え見いだすことに多くの意識を使い、過剰なまでの無根拠の自信と同時に自分は人と違うのではないかという不安を抱えた時期。宇宙に生命体が居ることの確率の低さに驚き、それがたまたま地球にいて、さらにその中で自分が生を受けていることを考えると、広さと狭さの間でクラクラするような時期。まあ、これは個人的な体験なので人によって違うだろうが。

彼は自分のことをリスナーに「ボス」と呼ばせている。おそらく彼は、覚悟を持って敢えてそう呼ばせている。

「人の真ん中に立っても期待に応えられない」「自分らにしかできないコミニティを作るっていっても徹底はしない。オタクって言うほどこだわりがない」という彼が自分を“ボス”と呼ばせる。たけしが「殿」と呼ばれるように。

「自分に人は寄ってこない。ビートたけしみたいなガキ大将でも親分肌でもない」 彼が、自分を“ボス”と呼ばせることとは、ひとかどの覚悟なのだと思う。

(参照:オールナイトニッポンと夕方の帯番組が決まったときのブログ。ダイノジ大谷の「芸人不良日記」 俺を選ぶなんてどうかしてる)。 あとこれもお薦め。

「爆発しそうな仲間」

自意識が肥大化してくると、悩みも増えるが語りたいことも増える。しかしそれをそのまま手近な人にぶつけたところで、良い反応が返ってくるわけではない。

たまたま同じ地域に暮らし、同じ学校に通い、同じクラスになったクラスの友人だからこそ、話す内容には気を遣う。同じ趣味嗜好で繋がっているわけではないから。「同級生」という「親密」な関係だからこそ、「引かれないように」「浮かないように」「傷つけないように」「傷つかないように」気を遣って関係を積み重ねる。

そんな内なる熱い思いをぶつけるには、彼のラジオは最高だ。「熱のハブ空港」だと思っている。リスナーの熱が彼を経由して新しい熱を産む。大谷は「熱の触媒」でもある。

彼のラジオは、痛々しいほどに暑苦しい人々を全肯定する。滑稽なまでに「暑苦しい」トークをして。

「同じ思いで爆発しそうな仲間」(ブルーハーツ)との出会いを感じられるラジオ。

「滑稽さ」

彼は自分のラジオがカウンターだと言う。まだ誰もやっていないところを目指す。その時本流でないことをするという意味での「カウンター」。大谷は、「その人になりたかったら、その人を否定するしかない」という。(参考:「壁の花が一歩踏み出すとき」)。“芸人としてこんなことやってる奴はいない、笑いも少ないのに熱く語るなんてどうかしてる、そんな俺滑稽だろう”という「カウンター」。

たしかに、お笑い芸人がDJをやり、音楽を熱く語る。考えてみればこれだけで構図としては面白い。しかし、音楽を熱く語る評論の姿からだけでは、「滑稽さ」が伝わりにくい。

それがこの数回は大きく違った。12月5日の樋口毅宏、12月11日のゲストが鹿野淳、そして12月18日に東野幸治。

大谷をこき下ろすスペシャルディセンバー

▷「なんだお前!大谷!!」

12月5日 はタモリ論の著書として樋口毅宏を呼んでおきながら、タモリについては、ほとんど大谷が自分で語る。樋口がライブの話をし始めると途中で自分の話で横取りする。聞いているこちらが、「もう少し樋口さんに語らせろ!」といらだつほどに喋る。あげくには、「情緒不安定 この上ないですよ、あんた」と言い放ち、すかさず樋口に「大谷さん、お前に言われたくないよ!」と返される。最後に樋口に「やばいわ俺。初対面なんだけど、カマ掘りあうくらいに仲良くなるか、大っ嫌いになるかのどっちかだね」と言わせる。

▷白い悪魔、東野幸治が登場

 12月11日 には東野幸治が登場。

アメトーークに「どうした品川」企画を持ち込んんで、品川祐の「クソ野郎ぶり」をリブートさせ、まえよりも堂々とした「クソ野郎」にした東野がゲスト。

リスナーに“ボス”と言われていることをいじり倒し、したり顔で「ボス」と呼ぶ東野。がっつり後輩の大谷が思わず「やめろや!と叫ぶ。「こんなに信者の少ない宗教団体はないよ。朝から晩まで自分を絶賛する声を探しだしてあぶり出してリツイートしまくる」とこき下ろしは止まらない。

次の週のメールにはこうある。「僕の抱えている思いや悩みに対して同情も説教もして欲しくなかった、馬鹿にはされたくないけど、伝わらないならすべて笑い飛ばして欲しかった。そんな複雑な葛藤が東野さんがボスをいじり倒すというやりとりを聞いていたことで浄化されていきました」〜童貞インンマイヘッド。

▷「このバンド、俺が見つけたってことにしてもいいスか」

12月18日には鹿野淳がゲスト。音楽ジャーナリストをゲストにしておいて、「ボスのレコード大賞」では自分を審査委員長にして鹿野を審査員扱い。鹿野には曲も紹介させない。「今日は音楽ジャーナリストの鹿野淳をお呼びしています」と呼び捨てにして、「先輩とか持ち上げといて下に落とすって何なの?」「お前ついに、“さん”とったね、剥奪したね」と突っ込まれる。

とうとう“ボス”は、鹿野淳が紹介したバンドを自分が見つけたと言い出し手柄を横取りする。思春期の、サブカル的な感覚そのままである。「俺だけがこのバンドの良さを知っている」「俺が誰よりも先に目を付けた」というあの頃の感覚のまま。

最終的には、鹿野までもが手柄の横取りをする状態。必死に抵抗する大谷。

大谷 鹿野さん(このバンド)知ってます?
鹿野 だってこれ、俺が紹介した奴でしょ。それにお前がのっかてるンでしょ
大谷 違うよ違うよ!!。俺がタワーレコードで見つけてきたんです!!

「これは滑稽」だという旗を立てる

大谷の音楽語りは、熱量だけではなく知識も豊富な分、アーティストや楽曲の「文脈」をしっかりと示してくれる。ヘタをすると感心して終わってしまい、「正しい」モノと受け取られやすい。大谷の主張が正しくないという意味ではない。

だからこそ、「滑稽さ」がわかりにくい。

そこに東野幸治が、「おい、お前ら。これは“滑稽”だぞ」という旗を立てた。そこに樋口、鹿野との絡みも相まって、大谷の「見え方」が変わった。「正しい」ことを言っているように見える大谷が、“どうやらそういうわけでもないぞ”と感じられる「見え方」を示した。

ちょっとだけ話が横に行くが、「正しさ」と「楽しさ」を考えてみる。

「正しさ」と「楽しさ」

正しさは必ずしも楽しさに繋がらない。しかし、楽しさが本物ならばその楽しさは必ず正しさに繋がる」という言葉を昔聞き、誰が言った言葉さえかもう分からないのだが、今でも心に残っている。

これは、内田樹も別の形で言っていると思っている。「『自分の主張は間違っている可能性もある』という前提に立つことのできる知性は、自説を無限に修正する可能性に開かれている。それは『今ここ』において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い」。

「正しさ」は“ひとつ”になりやすいけれど、「楽しさ」は人の数だけある。人の楽しさを認めたほうが楽しさは倍増する。

唯一の「正しさ」を纏おうとすると可能性が閉ざされてしまう。たった一つのものが「正しい」と感じられる世界はやはりつまらない。

ある環境にのみ強い遺伝子を持った生物種は、環境の変化で絶滅してしまうかもしれない。多様な遺伝子の方が、環境に適応出来る。

このラジオを「これは宗教ですよ」と笑い飛ばす東野。たしかに、悩んでいる時期に出会った理解者に対して、それだけが「正しい」、「救いの神だ」と信じる時期がある。それ自体まったく良いことだが、それが長く続くとそこから離れられず自立できない。「希望の星」が外にあるよりも、自分の「内」にあった方がいい。星をつくれた方が良い。その星が万が一なくなっても自分でやっていけるから。

思春期に救いの手をさしのべてくれる姿も頼もしいのだが、一方でその悩みを滑稽だと笑い飛ばしてくれるのもいい。悩みに支配されずにいられること。そのためには、悩んだ経験を滑稽だと思える視点を持ってみることは「童貞インマイヘッド」さんが端的に言っている。

アイドルにドハマリしたことが変化の第一歩?

聞いていて感じたのだが、ダイノジ大谷がここまで「崩壊」したこの流れは、℃-uteにハマったあたりから始まっている。もともと「主観」の強い“ボス”が、ますます「客観」でいられなくなったのだろう。

10月30日のANNは、普段は熱を持ちながらもヘタをすると「俯瞰した場所」にいる大谷が、℃-uteの矢島舞美にドハマリして、彼女と付き合っている妄想が全開放されてバカになっているのが楽しすぎるオープニングだった。そもそも喋るときの声質が違ってた。

彼はブログで昔、こう書いている。「自分の見解を言いかけて止められるという、不思議な時間」。まさに12月のオールナイトニッポンはそういうラジオだった。

12月のANNはほとんどがこれだった。相手の言葉を聞いているように見せかけてトーク泥棒をするが、相手に止められる。

熱量を持った者同士の「主導権争い」。けれど一方的ではなく、争いのようで「語り合い」だった。

くだらなさをかかえて多様性をまとう「楽しさ」スタート

最後に少しまとめてみる。

くだらない、ばかばかしいとは、「多様性」ということだと思っている。テレビやラジオ、芸能、文化の世界はくだらないからいいのだ。おなかがふくれないから良いのだ。

「正しさ」ではなく「楽しさ」を追求する。その転換が、ここ数回のANNで行われた。外からの「こき下ろし」という視点が加わったことで、「正しさスタート」から「楽しさスタート」になった。「正しさ」を合理的に説明することを希求しながらも、いつのまにかそれをかなぐり捨てて、勢いと熱が凌駕したラジオ。

「正しさスタート」では、どうしても広がりが弱い。

解釈をするのではなく、楽しさを追求した12月のダイノジ大谷オールナイトニッポン。

まあ、こうやって真実めいた口調で語っていること自体が広がらない記事だよね、うん。うさんくさいし、つまらない。

いま、大谷の熱 ( #netsu ) が、ウザくて面白いです。聞いてみてはいかがですか。


「今まで覚えた全部 デタラメだった面白い」

2013/1/8追記

ダイノジ大谷は東野幸治出演回をブログで、「ずっと積み上げたものを東野さんが全否定してくれてめちゃくちゃ面白かった」って言ってる。

ブルーハーツの「情熱の薔薇」にこんな歌詞がある。

「今まで覚えた全部 デタラメだったら面白い」

それが今まさに起こっている現場がダイノジ大谷オールナイトニッポンかもしれない。

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