ゴーストライターと“キャラ”と“物語”。思い込みと八百万の萌え。

リケジョやゴーストライターの、“キャラ”と“物語”中心の報道は行き過ぎだと感じつつも、人は勝手なイメージを作り出していく生き物でもある。そんな自分とどう付き合おうかつらつらと考えた。

「アイドル」だった「現代のベートーベン」〜”キャラ”と“物語”

「割烹着のリケジョ」、STAP細胞の小保方晴子さん、「現代のベートーベン」、佐村河内守さんのゴーストライターの報道の違和感。

STAP細胞については、研究内容そのものよりは、30代女性であることや割烹着という“キャラ”ばかりが取り上げられていた印象。

佐村河内さんの件で言えば、嘘をついていたことは確かだが、ここまで繰り返し大きく報道することだろうかという違和感。

「耳の聞こえない人が交響曲を作った」「被曝二世」という文脈とたった一つの“物語”で報道し評価してきたからこそ、「裏切られた」感が強いのだろうか。

詐欺行為そのものは別にして。自分たちが勝手に投影していた「美談」という物語が“ちゃぶ台返し”されたので“手の平返し”をしてるように見える。それまで持ち上げてきた自分たちの恥ずかしさと後ろめたさを怒りに変えて佐村河内さんにぶつけているようでもある。

結局のところ、佐村河内さんは「アイドル(偶像)」だったんだろうなあ。恋愛禁止だったはずのアイドルに恋人が発覚して怒るファンと似たものを感じる。

“勘違い”と新しい“物語”

自分はこのことが報道されるまで全く知らなかったので「だまされた!」感覚はないのだけれど、小田嶋隆さんは、「作品、作者、対象を愛するということはダマされてもかまわないと決意すること」だという。「誇張や勘違いや思い込みや思わせぶりをすべてひっくるめ」るしかないのだ、と。(「幽霊たちは誰を見ている?」)

この問題をどう考えるようかと思っているころ、森下唯さんの『より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~』 という文章を読んで、この件について新しい視点とイメージを持てた。

“往年のクラシック作品みたいに聴いていて素直に心の動くような書法の音楽は、「発注」されない限り、なかなか生まれない”とある。“能力のある作曲家が過去の焼き直しに甘んじて満足しないからだ”と。その上で、森下氏はこう書いている。「その言葉だけで、この事件は悪いことばかりではなかったんだと思えた。彼はこう語っていた。〜“彼の情熱と私の情熱が、非常に共感しあえた時というのはあったと思っています。”」と。

この文章は自分の立場を守るためでもなく、今までの物語を断罪するだけではなく、新しい“物語”を持てる文章だった。

「勝手な」イメージで感情移入する自分

「現代のベートーベン」問題について、自分なりの“物語”は持ったけれど、報道については違和感を持っている。けれどソチ五輪が始まったこの時期、選手に対して“キャラ”や“物語”を勝手にイメージし、どこかで「勝手な思い込み」を投影してみている自分がいることに改めて気付く。

オリンピック関連番組を見てその選手の人となりを知り、それまで追っかけてもいない競技や選手に一気に感情移入して、応援する。

例えば、ノルディック複合で渡部暁斗さん銀メダル獲得の、荻原次晴さんの涙(Youtube)。荻原次晴さんは「本当にこの20年間ノルディック複合は皆さんに期待して頂きながらメダルとれなかったんです。苦しかったんです」と号泣した。

これを見て僕は、「荻原さんは、ノルディック界を背負い、期待されたけれどメダルが取れなかった。そのことを20年抱え続けてきた。それが渡部さんの銀メダルで重荷がとれたのだろう」と勝手に物語をイメージし、感情移入して泣いた。

あとで知ったが、荻原兄弟がジャンプを武器に勝ちまくってたころに、距離重視にルール変更され、日本のアドバンテージがなくなってき苦労してきたという話を知り、さらに感慨は深まった。(関連記事まとめ)

実は自分は、実際の物語を知らない段階で、想像で泣いていた。それも、選手じゃなく解説者に対して。やはり「勝手な思い込み」があっての感情移入だ。

ヒトは「代わりのもの」でダマす

その涙の言い訳をするわけではないが、人は勝手なイメージを持つ生き物なんだ思う。結局、みな自分勝手にある対象に、“キャラ”をイメージし、“物語”を思い描いて、楽しんでいるんだ。

ちょっと話がずれるが、ヒトは言語を使用する。言語というのは突き詰めれば、「代わりのもの」だ。

他の人にイチゴが欲しいと伝えたいとき。目の前にイチゴなんか無いのに、”ichigo”という音を発して、または「いちご」という文字を書いて、実物ではないイメージを「共有」する。「赤い」と聞いても、想像している色はまちまちだ。

言語というのは、つきつめれば、代わりのもので用を済ましているものだ。細かい違いを無視した「ごまかし」でもある。ヒトというのは、言語でコミュニケートしてイメージを共有しながらも、イメージはヒトによって異なっている。

なんとなく共有はしているものの、お互いの脳内にあるイメージが同じモノかどうかは、確認しようがない。

いってしまえば、コミュニケーションや共感自体が、「幻想」みたいなものだ。伝わっているという感覚を持っているが、互いの脳内にある情報が完全にイコールであることは確認できない。近づけることすりあわせは出来てもイコールにするのは無理だろう。

完全に同じものは伝わっていないけどでも、大まかには伝わる。「共有」ってそういうことだと思っている。

勝手なイメージの押しつけ。ギャップ萌え

それぞれが「勝手」なイメージをズレながら共有していく。対象(その人)そのものを見ているようで、見てないのかもしれない。実在の人物にだって“キャラ”を見ている。勝手なイメージやキャラや物語を「思い込んで」「押しつけて」見ている。

思い込みや勝手なイメージの例で言えば、「ギャップ萌え」なんかは完全な押しつけイメージが元になったモノだろう。これは、幻想や勘違いがないと成立しない。“この人がこんな事をするはずがない”という「勝手な先入観」が打ち砕かれたときにキュンってなる。最初に自分勝手なステレオタイプな「先入観」を必要とする。

STAP細胞の研究者にも全聾作曲家にも、五輪選手にも、全てに対してなにかしら勝手なイメージを持って見ている。

誰かの話しを聞いているとき。表に出てくる言葉や表情と、自分が知っている過去の記憶をつなぎ合わせて、その人の考えや気持ちを「想像」するしかない。そこにはある種の自分の「思い込み」が働いている。「こう感じているんだろう」と想像できているにすぎない。その推測は「勘違い」である可能性だってあるのだ。

「勝手な感情移入」、八百万の萌え

人と人が関わるときには、想像で補って何かを「共有している」と幻想するしかない。どんなものにでも“キャラ”や“物語”を見いだすのは、完全に同じ情報を持ち合うことは出来ないヒトの特性なのかもしれない。

その上、日本人は特にその傾向が強いだろう。アニメ、ゲーム、フィギュア、特撮、アイドルにも、実在のモノを超えて“キャラ”や“物語性”を楽しむ。二次元のキャラを「俺の嫁」と言い、アイドルに疑似恋愛する。

もともと日本人は、自然物、自然現象に精神性を見いだしてきた。八百万の神というくらいだから。

無生物にさえ精神性を感じることが出来るほどに経験値が高く、「キャラ」を見つけて感情移入できる、「萌えリテラシー」が高い。

どんなものにでもキャラや物語性を見いだしていくのだから、日本には「八百万の萌え」が存在する。となると、自分なりのイメージを投影して、感情移入し、萌え、愛でることは避けられないんだろう。

(ここは感覚だけで書いているので、きっとすでに分析されていたりちゃんとした研究があるんだろうけれど。)

共有した「幻想」と「勘違い」をアップデート

人間は完全に同じモノは共有できないからこそ、いつもどこかでずれているし「勘違い」している。幻想のもとに生きていることになる。本当のところは分からないから、勝手なイメージを投影してみている。「誇張や勘違いや思い込みや思わせぶり」をするのが人間で、ダマされるのが人間。

見る側が勝手に「萌え」ている。

結局勘違いをし続けるのが自分なんだから、幻想と勘違いをアップデート(更新)し続けるしかないのかも。

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