「みのもんた」的テレビと非「みのもんた」的テレビ。ずっと「いじめっ子」のままのテレビはつまらない。

要約:今頃、みのもんた騒動のことをつらつらと考えつつ、「みのもんた」的テレビと非「みのもんた」的テレビを考えた。関係性が流動する世界を見せてくれるテレビがいいなあ。

27年間続いたラジオ番組『みのもんたのウィークエンドをつかまえろ』(文化放送)が終わるという(記事)。「みのが番組内で故・島倉千代子さんの葬儀を“(自分の)復帰にふさわしい舞台”と発言するなどして、リスナーから抗議が殺到。結局、2社がCM復帰しないまま番組が終了することになった」んだんそうだ。

みのもんた個人を攻撃したいのではなく「みのもんた」的テレビについてのあれやこれや。

いじめっ子のニオイ

テレビ視聴者としては「みのもんた」はどうも「苦手」だった。「大物感」を醸し出して「偉そうだから」。どうも自分にとっては見てて楽しくなかった。

いまはそうでもないけど、出始めのとんねるずも楽しめなかった。ボクシングの亀田一家も、見てて「不快」を感じた。

どちらかと言えばいじめられっ子サイドにいる自分としては、偉そう感・大物感は、自分にとっては「いじめっ子」のニオイがしたのだろう。

庶民の代表をされても困るという感覚

朝ズバがとにかく見たくなかった。

今振り返れば、“偉そうに見える人が「庶民」の代表みたいな顔をする”ことにかなりの違和感を持ったんだろう。芸能人で裕福で「庶民」ではないのに、そのバランスを取ろうとしているようには見えなかったから。その影響で他の出演番組も含めて視界に入れないようにしていた。

ただ、降板会見やラジオの発言をネットで風の便りに聞いて、これは「ちょっと面白いかも」って思った。きっと昔の自分ならそうはならなかったところ。偉そうな人が叩かれ始めて、溜飲が下がり自分の中で「勝ち負けの」バランスがとれたからかもしれない。自分でもゲスくてみみっちいとは思うが。

「世間の風潮で辞めた」形の降板会見

引退会見の凄いなあと思ったのがここ。というか恐い。「報道番組を降板しなければいけないんでしょうか」という質問に対して、「うん。(沈黙⋯) 辞めなければ収まらない風潮に感じましたけれど。私は今度のことで人品骨柄、収入、住む家、そこまで叩かれるとは思いませんでした」と答える(文字起こし記事)。

「辞めなければ治まらない風潮に感じましたけど」と言い、今までは世論を誘導する側だった人が、マスコミの報道や誘導に「やられた」という「傷」を作っての降板

自分が罪を犯したわけではないが、「自分の意志ではなく世間とマスコミの風潮で辞めざるをえなくなった」というやめ方。次に表舞台に現れたときに、より庶民側に付くことが出来る

今までよりもとれるポジションの幅が広がるということを考えているんだろうか、凄い技を繰り出して辞めていくなあと思った。

庶民側に付いたはずだったのに

でも、島倉千代子さんの葬儀が「私の復帰第一作」という「冗談」を聞くと、「庶民感覚」は全くないのだと思った。

ファンに向けてのラジオの中、島倉千代子さんの歌をかけ、リスナーのお便りに答える形で葬儀に出ると話す。「私の復帰第一作」「私のカムバックにふさわしい舞台が揃ってるじゃないですか」と言われ、アシスタントの女性アナウンサーは笑うだけ。(11月9日 「みのもんたのウィークエンドをつかまえろ」より。)

一番気になったのはその発言の直後。

アシ:島倉さんが与えてくださったのかもしれないですね。

みの:え?、島倉さんの葬儀なの?

アシ:(笑)そうです。

「え? 島倉さんの葬儀なの?」まで聞くと、冗談を言っているんだと言うことがわかる。それもかなり振り切った冗談。バッシングを受けてテレビの露出が激減した時期に言うセリフとしては、とてつもない「大ボケ」である。

これって、状況的に考えてみるとものすごく「面白い」。世間からバッシングを受けて退場した「大物」が、人の葬式を復帰第一作だと言い放ち、あげく、「葬儀なの?」ととボケる。

でも、ツッコミ不在。突っ込める人がいない。アシスタントは笑うので精一杯。みのもんたのあの「ボケ」に突っ込めるわけがない。力の差があって抵抗できないセクハラというものが、疑惑になるほどの人なのだから。力のある高いポジションの人がたった一人、大ボケを繰り出すだけの時間だった

「みのもんた」的テレビへの反発。

葬儀の大ボケを聞いた時、みのもんたほどの人が、「今これを言ったらどううけとめられるかという計算が働いていないんだろうか?、なんでこのタイミングでこういう冗談を言おうとしたのか」と不思議でしょうがなかった。

これはすでに「みのもんた」というキャラも、「みのもんた」のでる番組も、「みのもんた」が中心であることを当たり前としてしまってたから起こったのかもしれない。

「王様は裸だね」と指摘する子どものいない世界。王様が裸のままで暮らしていく世界。(これはこれで想像すると面白いけど。)

「みのもんた」的テレビとは、「みのもんた」的な中心が大きく一つあって関係性の固定された番組。いってしまえば、「テレビを見てれば良いんだよ」というテレビの黄金時代をそのまま引きずっているような作り方の番組。

それに対する反発が大きかったように感じている。

いじめっ子がいじめっ子のままでは見てらんない

ドラえもんの世界では、ジャイアンというガキ大将(いじめっこ)がいるけれど、スネオには太鼓持ちをされ時に影で馬鹿にされ、ドラえもんの秘密道具によってこてんぱんにされる。映画では友情に厚い良いヤツになる。いじめっ子—いじめられっ子の関係性が、その時々で変わる。だから面白く見ていられる。

コントであれば、設定や舞台があり、関係性があった上で、役割分担がある。偉い人がいていじめられる人がいる関係のコントであっても、どこかで反旗を翻す瞬間が面白かったり、本筋とは別のものが入り込んで面白くなったりする。

「みのもんた」的テレビは、テレビが「いじめっ子」 永世名人になってしまっていたので見ていられなかったのかもしれない。

非「みのもんた」的テレビ

それに対して、中心はあるけれども、周辺と入れ替わるのが、非「みのもんた」的番組。自分の好みで言えば、笑っていいともがその代表だ。

「みのもんた」個人が悪いと言いたいのではなく、“テレビのこの画面の中が全てです”という感覚の番組作り方に対して、中心しかない作り方に対して、つまらないニオイを感じたんだろう。

タモリの名言に「やる気のある者は去れ。やる気のある者は物事の中心しか見ない。面白いことは周辺から始まっていく」というのがある。

あるとき、周辺が一気に中心になり、中心が周辺に追いやられる。その時々で、面白いものは変わっていく。つまり関係性は固定化されずその時々で流動する。それが面白さを生む。

2月16日の笑っていいとも増刊号でタモリはこう言っていた。「女子6〜7人といると気持ちが女子になる。セクハラする上司が本当に気持ち悪くなる」。「国民のおもちゃです」と自称するタモリの、精神の自由度の高さが、この関係の流動性を生む土台だろう。

テレビや芸能人に対して「庶民感覚」を求めるとき、実際には「中心と周辺の流動性」を求めているのだろう。偉そうな人がこき下ろされて面白がるというゲスい気持ちも、そういう流動性に面白みを感じているのだろう、とついでに自己弁護しとこう。

「みのもんた」的テレビは、中心の「みのもんた」しか存在しないように感じてしまい、「一人が全てをコントロールしている世界が続く」と見えてしまっていうので、自分にとっては面白くなかったのだろう。

中心と周辺、関係性が入れ替わる世界を

テレビ好きでお笑い好きで、あれこれ繋いで深読みもする裏も想像する自分。テレビは今でも娯楽の王様だと感じてはいる。

けれどそんな自分でも、制作側の「オレ様感」が伝わるとすぐに見たくなくなる。「テレビが全てを握っています」という偉ぶりが見えてしまうと引いてしまう。

嫌なら見なきゃいいだけということではなく、“テレビのこの画面の中が全てです”という感覚の番組作りに対して、いやなニオイを感じたんだろう。

ずっと「いじめっ子」のままのテレビはつまらないのだ。

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