『明日、ママがいない』の表面だけが取りざたされる訳

『明日、ママがいない』。

「お前達は何におびえている。表面的な考え方なんじゃないのか?」と魔王に言わせた6話。このドラマはどうして、「表面」だけが取りざたされているのだろう。

6話では、このドラマが描いていることはフィクションであること、表面にあるものをそのまま受け取るな、奥底に描かれていることを見ろと、わざわざ言葉で説明してきた。5話で「お化け」を出したことが路線変更と言われるがそうは思わない。このドラマは前の記事でも書いたとおり、最初からフィクションであることがわかりやすく作られている。ボンビはもともとすぐに夢想するキャラクターであり、あの演出もそれを踏まえた流れだろう。ただ、明らかにドラマ作品としてではなく、「世間」に向けたと受け取れるようなメッセージを6話で出してきた。

魔王のセリフ通り、「自分が受け入れられないものを全て否定し、自分が正しいと声を荒げて攻撃」することは、どうかと思う。ただ、児童養護施設や当事者近縁の人たちが真剣に申し入れをしているものとは別に扱うべきだ。浜松医大「子どものこころの発達研究センター」が出した要望書(クリックでダウンロードされます) のように、「特定のリスクのある子どもに対する一定の配慮」は必要だ。このドラマがフィクションであっても、その内容よりもテーマの取り上げ方そのものが中心となって取り上げられたのはなぜだろうか。

コガモの家の‘以外の人は心が澄んでいないのか?

爆笑問題の太田光はラジオで「キャラクターも紋切り型で。俺が観てて違和感を感じるのは、”施設にいる子たちだけが、クールで人間の本当の優しさ、大切さを知っていて、彼女たちだけが心が澄んでいる” って描かれてる」と言っている。

僕はそう思っていない。“外の人間は心が澄んでいない悪い人” だと思ってみていない。前の記事でも書いたが、パチをお試しで預かった妻は、不妊治療で苦しみ、その責任は全て夫のせいだと言い、子どもとの関係を切り結ぶことがうまく出来ない様子が描かれていた。何かしら背景があるのだろうと予感させる人物描写だった。事情があるという描き方だ。

子どもの描き方が「一面的」

どちらかというと、僕が気になっているのは子どもの描き方。

コガモの家の魔王も、年齢の高いオツボネもロッカーも、児童相談所の水上も、その人となりに至る何かしらの背景や理由があり、「多面性」を予感させる。「外」の人も、パチの里親候補などにみるように心理的背景がある。多面性というより、いろんな事情があって、その人なりに凸凹しているという描き方をしている。

一方で、ポスト、ピア美、ボンビなど小学生以下の子どもたちは、心理的に裏がないというか「一面的」で内面がないように感じる。何らかの事情で親と暮らせない子どもに起こりうる様々な心の動きがあるはずなのに、非常に一面的。

「児童養護施設の入所の手続き、児相の役割、里親の選び方などが実態に合っていない」ということはあまり問題ではなくて、子どもたちの描き方があまりにも一面的。結局、「親と暮らせない」という「設定をもったキャラクター」でしかない。あえて「取材不足」だというのであればそこだろう。

子どもたちの弱さや脆さ、たくましさや複雑さなどがほとんど描かれてこなかったため、設定や演出の「表面」が際立ってしまったのではないだろうか。子どもの心理が単純化されていることがドラマ的リアリティの欠如を感じさせたのかもしれない。

「かわいそう」が「表面」で終わる

例えば、脳性麻痺ブラザーズというお笑いコンビがいる。2人とも脳性麻痺で、それ自体をネタにする。医者と患者のコントでは、患者役が「昨日から調子が悪いんです。多分風邪だと思うんです。手が動かない、身体も震える、うまくしゃべれない」というと、医者役が「あなた脳性麻痺じゃないんですか」という。このネタそのものは自分にとっては面白い。しかし「この人たちはかわいそうだ」という気持ちがあると笑えないだろう。また、ネタ自体が面白くなくても「つまらない」と言えないだろう。このネタをどう受け取るかは、受け手が「障害」をどう捉えているかに左右される。

このドラマも、「親のいない子はかわいそう」という気持ちから、まじめな構えだけを呼び起こしてしまう。もともとのテーマ故に、設定などの表面やだけに目が行きやすい。シリアスな気持ちだけで見てしまいやすい。自虐的な名前を付ける子どもたちを、笑い、楽しむことは差別に繋がるのではないかという、気にさせてしまうのかもしれない。結果的には「臭いものに蓋」をしてしまい、「差別」を生み出してしまう。

ベタなドラマに「リアリティ」を与えたもの

このドラマは、ザ・フィクションであり、非常にデフォルメしてカリカチュアライズして描いている。ボンビのファンタジー場面など、メタ的描写もある。自分が殺したと思い続けていたロッカーの誤解を解く「ために」末期がんの母親が意識を取り戻すなど、ご都合主義的脚本も含めて、大映ドラマ的。メタでベタなドラマだ。それ自体をけなしてはいない。ここまでフィクションでありながら、なぜ設定の表面だけが問題になったのだろうか。

おそらく、「大仰」なまでの演技に「真実性」を感じたのではないのだろうか。

それまでベタで逆説でカリカチュアライズされて描いていたのに、芦田愛菜の演技によって一気にドラマ的リアリティが強まる。その瞬間、フィクションであることを忘れてしまう。多分みんなその演技に「だまされる」。結果、ドラマの「表面」を受け取ってしまう。脚本や設定での仕掛けによってドラマの世界に入り込むというよりは、圧倒的な演技力によって、その瞬間に圧倒的なリアリティがやってくる。決して演技をけなしているのではない。

差別構造

この物語はこの差別構造自体をメタに取り扱っているドラマだと言える。

「親のいない子はかわいそう」というステレオタイプを扱う設定を作った上で、「かわいそうだと思うヤツがかわいそうなんだよ」と呼びかける。世間的に「かわいそう」と思われる状況と人物を登場させ、その子たちを視聴者がどう見るかということが、テーマになっているドラマ。これをどうとらえますか、楽しめますかという提示をしているドラマというのは勘ぐりすぎだろうか。

宣伝や煽りとのちぐはぐさ

そういいながらこのドラマは、コミカルとシリアス、カリカチュアライズとリアルのバランスがうまくいってないように感じる。

一番感じるのは宣伝とタイトルバック。「21世紀で一番泣けるドラマ」と公式サイトでうたい、タイトルバックは、繋ごうとする親子の手を映し出すなど、ヒューマニズムを前面に出す。

なのに、作りは逆説でベタ。ドラマの作りだけでなく、宣伝やタイトル含めた、ドラマの押し出し方全体としてのちぐはぐさを感じる。

もっと厳しく言ってしまえば、宣伝では「お涙ちょうだい」を前面に出しながら、お涙してしまう人をあざ笑うような作りだったのかもしれない。泣けるドラマと煽りながら、「かわいそうというヤツがかわいそう」と、「かわいそう」と思って見ている人に刃を突きつけるドラマ。

その割に、子どもたちの「親がいない」以外の属性や心的事実がほとんど描かれていないために、子どもの名前や設定に焦点が当たったのではないか。

分かる人と分からない人の分断

前の記事を書いたときも、どこかで自分は「こんなにわかりやすいのになんで分かんないかなあ」といういらだちを持っていた。突き詰めて言えば、誤解せずに受け取っている自分に酔っていたのかもしれない。もうちょっと自分に優しく言うと、分かっている自分しか見ていなかった。あくまで自分の基準からみて「誤解している」人たちがどう感じているかをあまり想像しなかった。どうして誤解するのだろうかということを。

このドラマは「メタ構造とフィクションを分かる人」 VS 「表現された者が全てだと思ってしまう人」という対立構造を生み出したのかもしれない。6話の魔王のセリフは、その溝を深くするのか埋めるのか心配さえしてしまう。

分かるヤツだけ分かれば良いというポイントはあっても良いが、重層的になっていないと、一つの見方をされるだけになってしまうだろう。子どもたちの一面的な描き方が5話目まで続いていたために、分かる人と分からない人の間に溝を作ってしまったのかもしれない。

これからの子どもの描き方に期待

6話になり、ようやくドンキの多面性が描かれ始めた。ロッカーが殴る場面を見たドンキは、これまでにない表情を見せ、ロッカーを向かえる子どもたちを窓から冷ややかに見るている。

一方でポストは、身近に居る仲間への信頼を一片も崩さないが、コガモの家だけが幸せな場所であり外の世界との対決姿勢も崩さない。パチという「家族」を手放し、コガモの家の子どもたちが新しい家族との暮らしを始めていくなかで、ポストはどう変化していくのかが、このドラマの胆だとは思っている。

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