マジョリティにいると気づけないこと。「マイノリティでもマジョリティ」

性的マイノリティ家族を取り上げた「発見!ニッポン予想外家族4」。生物的女性で男性の性意識をもつ人が、運動が苦手な子に「やる気ないならやめよう」という指導をしていた場面を見て、マイノリティとマジョリティを考えた。もしその子が身体意識の発達面でマイノリティだという視点を持ったらどう見えるだろうか考えてみた。

「マイノリティでもマジョリティ」って打ってたら、「暦の上ではディセンバー」のメロディー浮かんできた。替え歌作れれば良いんだけど、その能力はない。

ニッポン予想外家族4

1月19日にテレビ東京系で日曜ビッグバラエティ「発見!ニッポン予想外家族4」 という番組が放送されていた。

「予想外家族」というくくりで、性同一性障害の家族を取り上げていた。性同一性障害について興味は持っていたが、この番組は初めて見た。

生物学的性別は女性だが、男性という性の自己意識があるFtM (エフトゥーエム)、その逆のMtF (エムトゥーエフ)の家族を紹介した番組。あまり好きな言葉じゃないけど、いわゆる「おなべ」、「オカマ」。

完全に真面目にドキュメンタリーとして扱う方法もあるだろうが。「予想外、驚き」というテイストで扱うのもよいのではないかと感じた。当事者の方はまた違う感想を持つだろうけど。

“これは知るべきこと、大事なことだ”という説得のような優しさアプローチよりは、「驚き」というすこし離れた場所からスタートした方が、間口が広いと思う。性的マイノリティの家族が出たときに、スタジオの出演者が「びっくり」と言ってくれた方が、「一般視聴者」の感覚を代弁していることになるだろうし。

いきなり共感しろ、理解しろというよりは、こんな人たちもいるんだよと紹介し、あまり脚色を多くしない程度に見せていくやり方。これはテレビ的にはありかなと感じた。新宿2丁目やテレビバラエティでのオカマの活躍の姿だけを見せるのとはまた別の間口。4回も放送しているのできちんと受け入れられている形なんだろうなと。

「ちゃんと産んであげられなくてごめんね」

MtFの花嫁さんが家族にカミングアウトしたとき、実母は「ちゃんと産んであげられなくてごめんね」と言った。

母親としても、「息子」の突然の告白に驚いたことだろう。けれど、身体は男性であり心は女性であることに対して、この言葉が出てくることに驚いた。というか尊敬の念を持った。

ある研修で聞いた話。自分の子を事故で亡くした母親は、「あの時あの子が外に行くのを止めていれば」と後悔し、それがやがて「自分が生まなければあの子を死ぬことはなかった」になるという。ついには、「自分が生まれてこなければあの子を死なせなくて済んだのに」とまで思う人もいる。

性同一性障害の母親が「こんな風に産んでごめん」と思う気持ちは、これと似ているように感じた。母親だからこそ感じることなのかもしれない。そして、その子どもは子どもを作り出産するという経験が出来ないんだよなあとか、いろいろと考えさせる。

そして、FtMとMtF夫婦の父親が、「これで家族に、子ども、孫、男、女、オカマ、オナベが揃ったからね」と笑って言っていた。

乗り越えてきた当事者だからこそ言える力強い言葉だった。

男目線の社会。テレビは男目線で作られる。

2013年12月29日放送の「ボクラの時代」。壇蜜、小島慶子、ミッツ・マングローブの対談。

「裸を曝すことは過激だと言われる。人前に出て喋ること自体相当恥ずかしいのに」という小島慶子。「テレビやラジオに出たり文字を書くことと、身体を曝すことはそんなに変わらない」というのが小島慶子・壇蜜の感覚。

ミッツ・マングローブは「男社会の男目線で見てるから」だという。「どっちがありがたいかというとオッパイ放り出している方が男にとってはありがたい」からと。

また、男性が女性的に振る舞うこと、オカマが出てくることはテレビ的に許されているが、逆はタブーのように扱われているのはなぜかということも話していた。ミッツはこう言ってた。

「男が見て面白くないから。雑な言い方すると女が一人減る。それは男にとってはよろしくない。なおかつ男社会に入ってくる」と。

男社会の感覚がどれどけ強いか。例えば男女混じって飲んでいるときなどに、一人の男性が「ゲイ」なのではないかという疑惑が持ち上がると、他の男性は「おい、やめてくれよ!俺そんな気ないから」と慌てて言う場面に時々遭遇する。

これは男性が自分の目線を客観視できていないことが根底にあるからだと思っている。

多くの男性は、異性から性的な目線に曝されるという経験が少ない。そのため、自分を性的対象にする人が自分の所属する集団にいると分かった時点で、ライオンを見た草食動物のようにパニクる。女性だったら、その善し悪しは別にしても、胸や足に注がれる男性の視線のなかで生きているから”慣れてはいる”。男性そういう経験をほとんどしてこない。

逆に、男性は女性に対して普段から性的な目線を向けているにもかかわらず。

男目線の社会というマジョリティ側にいると、そのことに気付きにくいのだ。

FtMのボクサーが運動の苦手な子に運動を教える

ここで、話は「ニッポン予想外家族」に戻る。

FtMの「女性」ボクサー(指導者)は引退後の生活を考え運動教室を開催していた。小太りの小学生男子に、跳び箱を教えている場面が映された。その子は跳び箱の手前に階段をつけたものさえ跳ぶことが出来ないでいた。全然出来なくてやる気をなくす彼。

そのボクサーは「やる気ないならやめよう」と言って、やる気を出させようしていた。それを見た僕は、「その指導は効果がないだろうなあ」と感じた。

これから書くことは、テレビで編集された一部の様子から僕が勝手に想像したことだ。そのボクサーは熱心に指導していたし、あれは長い指導の一場面だってこともわかった上でいう。これが事実だと言うつもりもなく誰かを責めるつもりもない。

このような視点を持ち込んだらどう見えるだろうという話をしたいだけなのだ。

その子は手足の動かし方がバラバラで、平均以上に運動が苦手な子に見えた。詳しく言うと、自分の身体の感覚を意識するのが苦手な子だと思えた。自分の身体のパーツがそれぞれどう動いているか、どう動かしたら良いのかについての”気づき・意識”が非常に弱いのではないかと。

跳び箱を跳ぶには、手足を動かして前に進み、タイミング良く両手を跳び箱に付けて地面を蹴って足を開き、両手の力で身体を前に押し出さないとできない。目から入った情報と自分の筋肉や関節が今どういう状態かという情報を統合して身体を動かし、バランスを取らないといけない。いろんな情報をつなぎ合わせて瞬時に「うまいこと」やらないといけない。こんな風に、えらく難しいことをたいていの子は”あっさり”やっている。

けれどこれが苦手な子には、「身体感覚を身につける教え方」をしないとうまくなれないし、まずもって楽しくない。

仮にあの子が発達障がいだったとしたら、と考えてみる。
発達障がいの子は身体感覚が弱い子が多い。自分の身体がどう動いているか、どう動かすかという感覚を意識するのが苦手だ。その子に、他の子と同じ教え方をしてもその子は学べない。「やる気」の問題ではない。

例えば、発達障がいで身体感覚が“弱い”子が字を書く負担というのは、きちんと字が書ける大人が軍手を2枚重ねてはめて字を書くようなものだという。それを知らずに「何度も書けばうまくなる」というのは、間違った指導法になってしまう。

マイノリティでもマジョリティ

あのボクサーは、性同一性という面では「マイノリティ」であり、それゆえの苦労をしているはず。

けれど運動という面に関して、ボクサーは多くの人が出来ることを出来るし、それ以上のことが運動面で出来るはずだ。「運動が出来ない側」の気持ちは分からないかもしれない。そういう点では「マジョリティ」。ここでいうマジョリティは「ある特性で苦労しない側」程度の意味。

この意味が近いかも。マジョリティ「その側面において鈍感でいられる人々」。このFtMボクサーは運動という側面では鈍感でいられる人。

煽り記事のような言い方になっちゃうけど、運動の苦手な子に「やる気を出せ」というのと、オカマの人に「男らしくしろ」というのは、とても似ているんじゃないだろうか

自分がある属性でマイノリティだとしても、別の面ではマジョリティになっている。マジョリティ側にいると、そのことは当たり前すぎて気付きにくい。自分が特定の考えでモノを見ていることに気付けないかもしれない。

別にそれを責めたいわけじゃない。そういうことは、一人の人の中でもあると思う。一つの面ではマイノリティだとしても、別の分野ではマジョリティになることはだれでもある。ここまで生得的な問題でなくても、好きなモノで繋がった仲間であってもありうる。集団によってかわる。

そういうときに自分が知らない世界があることを想像できるかどうか。

この例で言えば、運動の苦手な子側の視点を知っている人がそれを伝えてあげられると良いなと感じた。こういう理解の仕方もできるんじゃないかなって考えられるといいよなあと。

性的マイノリティっていっても、その人の大きな部分かもしれないが、アイデンティティの全部ではないだろうし。

自分の枷(かせ)をはずず

自分や自分の周囲の人に性的マイノリティの当事者はいないのだが、興味がある。心理という仕事柄、出会ったことも何度かあるが。

なぜ興味があるかというと、それは自分の想像力を拡げてくれるから。それを考えることは、こうあらねばならないという自分の発想や想像力の枷を外す作業を求められることだから。

「男性目線」もそうだし、マイノリティとマジョリティの転換もそうだけれど、自分が知らず知らずに持っている目線、フィルター、色眼鏡に気付く機会が増える。
上でも示したが、ゲイであることを公にし、性的マイノリティの運動などにも積極的な島田暁氏の発言。

この発言は理解しきれない部分もあるけれど、自分はこう捉えている。

当事者と非当事者間の権利の問題というとらえ方ではなく、人が繋がるときの形を多様に拡げていくという観点で考えたいなあ、と。

自分はマイノリティだという当事者意識を強く持ちすぎることは、結果的に被害者意識にもつながり、多様なつながりを閉ざしてしまうかもしれない。

多様性を認める

結局自分は「多様性を認められる」ようになりたいんだろう。

自分は性的マイノリティについては当事者ではないが、このことを知って考えていくことは、自分にとって大事なことだと思っている。自分の知らない世界があることを知って、それを想像する力を付けるために。

色々考えていくときに単純化する部分や間違ってしまうことはあるけど、自分の考えや枠組みが間違っているかもしれないという前提に立っていたいなあと。

むずかしいんだけど。仕事で思い通りに「動いてくれない」「反論してくる」人に出会うと、「同じ考えなら楽なのに」って思ってしまう自分が居るし。

まだジェンダーの問題が社会に認知されるずっと前から「女の格好」をしてきた美輪明宏は、インタビューでこう言っている。

美輪:だから、私がやったことに対しても、世間は「女装マニアが、女の格好をしたくてやった」と思ったわけですよ。でも、当時から私は「これは戦闘服です」って言ってたんです。「日本の文化を取り戻すためです」って。元禄時代を見て御覧なさい。どっちが男でどっちが女かわからない、そういう服飾やヘアスタイルをしているわけですよ。日本の伝統として、ホモセクシャルもレズビアンもヘテロセクシャルも全部共存共栄して、市民権を得てた。男女同権だったんですよ、昔の日本は。

美輪:そのために文化があるのに、終戦後からそれを全部置いてきちゃったわけ。想像力がないから、相手の生い立ちとか、コンプレックスとか、傲慢さとかを推し量って、相手の身になってみたり、多角的にものを見ることができない。それは一面的なものの見方しか教えてこなかったからなんですよ。

CINRA.NET なぜ歌い、戦い続けるのか 美輪明宏インタビュー

自分が男性として男性目線の社会にいるからこそ、男性という目線を外すためには、かなり意識しないと外せないと思っている。

多角的に見るためには想像力が必要なんだよなあ。

マジョリティにいると気づけないこと。「マイノリティでもマジョリティ」」への2件のフィードバック

  1. セクマイ当事者です。あなたの文を読んで、セクシャル的にマジョリティの人の意見を知ることができました。また、自分は性ではマイノリティですが、たしかに、マジョリティの部分もあり、そこにはなかなか目が行きにくいともきづけました。

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    • あろけさん。お読みいただきご意見いただけて嬉しいです。
      自分はセクマイではないので、その意見にコメントいただけるのは本当にうれしいです。
      マイノリティについて心に留めておくと自分の枠を広げられると思ってます。今までの経験で、発達障害分野ではマイノリティの側に近いのですが、人は誰もどっちもあるんだなあと思います。
      自分の当たり前が相手の当たり前でないことを知って行く過程をきちんとやれたらなあと思ってます。
      本当にコメントありがとうございます。

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